電撃! 激坂調査隊が行く

アクセスカウンタ

zoom RSS 折々の雑感131 高山彦九郎記念館講演会「『忍山湯旅の記』の跡をたどる」メモその9

<<   作成日時 : 2017/08/15 01:58  

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 彦九郎講演会メモの9回め。前回から細谷への帰路のことを書いています。前回は、赤岩の渡しを渡るところまでを書きました。今回はその続きで、赤岩の渡しの概説から始めようと思います。

(13)赤岩の渡し
@現赤岩橋(桐生市堤町)

 赤岩の渡しは、現在の赤岩橋よりも下手の場所で、JR両毛線架橋付近にありました。現在の赤岩橋は3代目で、平成11(1999)年の3月に開通したもの。

A2代目赤岩橋(昭和16年7月架橋。赤岩橋記念碑の写真)

画像
 2代目赤岩橋の写真を表示します。この橋は、昭和16(1941)年7月に架橋されました。赤岩橋記念碑(上毛電鉄富士山下駅の北、渡良瀬川、旧橋付近)の写真を借用しました。なお。 初代赤岩橋は明治35(1902)年12月架橋です。

B赤岩の渡し絵図(「天保巡見日記」より 『群馬県史資料編13近世5』)

画像
 「天保巡見日記」にある赤岩の渡し絵図です。引用は『群馬県史資料編13近世5』から。
 「天保巡見日記」について簡単に説明します。
 12代将軍家慶は、将軍就任後に関東地方の幕領の諸状況を調査させました。「天保巡見日記」は、調査を命ぜられた勘定奉行の役人、芳賀市三郎が巡視の際に記した日記です。この日記は、公式の報告書ではなく、芳賀市三郎の個人的な備忘録のような性格のものらしいです。
 天保9年4月17日桐原村に宿泊。18日に神梅、水沼、荻原、花輪村などを巡視し、花輪に宿泊しています。20日に大間々、桐生新町を訪問。大間々町から桐生新町に入る際に赤岩の渡しを通行しており、上に表示した絵図はそのときに描かれたものです。
 日記の執筆者である芳賀市三郎なる人物については、勘定奉行の役人であったという以外の経歴はよく分かっていないそうです。以上は『群馬県史 資料編13』の児玉幸多による解説を参考にしました。

 「天保巡見日記」の4月20日の記述から赤岩の渡し付近の様子を記した箇所を抜粋すると以下のようになります。

「壱里余下新田村、この辺ハ打ひらけし良田畑有、地味ハ砂多しといへとも上土と見ゆ、拾五六丁程行てまた渡良瀬川赤岩之渡にいたる、危橋を架して渡船に替る、風景甚妙なり、また一図を造る、渡之本宿村新宿村桐生新町なり、三拾丁余町続至極繁昌なる在町なり」(『群馬県史 資料編13近世5』)

C赤岩の渡し付近現況 2枚(桐生市相生町)

 渡良瀬川、赤岩の渡しがあったとされる付近の写真を2枚表示しました。

画像
 うち1枚は、下新田側より西側を撮ったものです。川奥に小倉峠の山稜が見え、その斜面に青葉台団地の住宅地が望めます。手前に見える緑色の橋は上毛電鉄の渡良瀬川橋梁です。「天保巡見日記」に収められている赤岩の渡しの絵図も、おおむね同じ場所から見えた景色を描写したものと思われますが、比較してみていかがでしょうか?

画像
 もう1枚は、JR両毛線渡良瀬川橋梁を下新田側より撮影したものです。対岸は元宿町です。

 彦九郎の日記には「渡瀬川赤岩にて綱越しにて渡る、西へ渡る川幅せバし、川原を西南と数丁行きて直に大間々道なり、左り辰巳の方大原いせ崎道といふ也」とあります。

 赤岩の渡しについて概括します。
 江戸時代、桐生付近の渡良瀬川には橋はなく、次の4か所の渡し場によって両岸どうしの行き来がなされていました。
・赤岩渡 本宿村〜下新田村(現時赤岩鉄橋下手)
・後谷(うしろや)渡 新宿村〜上広沢村後谷(現時錦桜橋下手) 
・間(あい)ノ島渡 境野村〜間ノ島(現時昭和橋下手)
・松原渡 境野村三ツ掘〜下広沢村松原
 後谷の渡しと間ノ島の渡しは、簡略な渡し場であったようですが、赤岩の渡しと松原の渡しは、主要な街道とつながっており、桐生新町への交通路として重要な役割を果たしていた渡し場です。
 赤岩の渡しの運営の形態をまとめるとおおむね以下のようになります。年代による違いはありますが、下記は万延(1860)元年当時の状況です。桐生新町ほか19か村対本宿村赤岩渡難渋出入の訴訟文の一節を要約したものです。

「1 渡河の施設は夏秋季は渡船、冬春季は仮板橋。
2 経費は@新船建造費は桐生新町九分関係町村一分の割にて負担。 
     A仮板橋は船頭が穀場村々の助成金をうけて架す。
     B渡前後の道普請は桐生新町の重立人の役務。
     C年々の船頭給料は関係町村より軒別一軒に付馬持は雑穀四升、無馬者はその半額を醸出して充当。
3 渡賃は関係町村民は無賃、一般旅人は有料一人につき金五文。
4 渡船運上として安永九年より年額三分二十三文一分を幕府に上納」
 以上は『桐生市史上巻』を参考にし、一部を引用しました。

 上記と重複する部分もあるのですが、赤岩の渡しについて概説している文章を以下に引用しておきます。

「江戸時代から明治三十六年まで、現在のJR両毛線渡良瀬川橋梁沿いの本宿村(現在の元宿町)原と下新田村(現在の相生町二丁目字中原)との間に夏秋は綱越しの舟、冬春は板橋の渡し場があった」
「現在の様な永久橋が架橋されるまで、日常生活に必要な食料搬入は近在の村々(穀場村)織物市への来客、寺社祭礼などの参詣人輸送に大事な役割を担った渡し場であって、下流の松原の渡し場と共に主要な街道に通じ利用された。本宿村より渡船で下新田村に出て左、中河原、桐生道から阿左美村、桃頭村、国定などを経て伊勢崎町に通ずる伊勢崎道へ、また渡し場を渡って右に天王宿村、蕪町村を経て大間々に達する大間々道で大間々にて大胡及び足尾日光道に連絡する」(「赤岩渡船について」田辺元一郎 『桐生史苑第四十二号』2003年より)

 つぎに安永7(1778)年10月に作成された文書(赤岩渡船場の運上金(税金の一種)について書かれたもの)の一部を要約してみます。彦九郎の『忍山湯旅の記』は、安永4(1775)年の日記ですので、彦九郎が赤岩の渡しを通行したときの状況に近いと思います。

「渡良瀬川、下新田村と本宿村の間の渡し場は佐野、足利より足尾、日光への裏道である。
渡し船の修復は、近隣の穀場村から費用を受け桐生新町で行ってきた。
船頭は下新田村で勤めてきた。桐生新町は、本宿村の百姓に船頭を委託している。
桐生新町、本宿村、下新田村の三か村で運上金(税の一種)3歩を納め、渡船を運営したい。
近隣の穀場村は、従来通り、穀物で渡船賃を受け取る。
旅行者は、水の少ない時は一人につき鐚(びた)三文、増水時は鐚十二文の渡船賃を受け取る。
船頭が受け取り村役人に預け、十二月十五日までに運上金を納める。
渡船賃の残りは船頭の給金や船の修理に充てる」といったことが書かれています。赤岩の渡しは、桐生新町、本宿村、下新田村の3か村で共同経営されており、一般旅行者の渡し船の料金は、通常は1人3文、増水時は12文であったことが分かります。桐生新町に穀物を供給している近隣の村々の通行人の場合、穀物で船賃を受け取っていたようです。
 なお、上記の文書は、書上家文書(桐生市立図書館蔵)から。引用元は『昔の桐生にふれてみよう』(桐生歴史研究会 1996年)です。

 やや長文になりますが、文化6(1809)年4月の文書(桐生新町が赤岩渡船場の昔からの仕来りを役所に報告したもの)を紹介します。赤岩の渡しの運営状況などが書かれた部分を要約すると以下のようになります。

「渡良瀬川渡船場は桐生新町より西方へ十町(約1.1キロ)ほどである。 川向うは下新田村、川手前は本宿村、赤岩という場所にある。
巡見使の通る道筋で、佐野、足利より足尾、日光への裏道である。また佐野、足利、桐生、大間々、大胡、前橋辺りの商人らが通行する道筋でもある。
赤岩の渡船場は、いつどのように始められたかは分らないが、昔から桐生新町で船を用立て、修復なども桐生新町で行ってきた。
毎年二、三月頃から十月までは船渡し、十一月から三月頃までは土橋を架ける。ただ、一、二月頃に出水があったときは船渡しにすることもある。
船頭は桐生新町で雇い、本宿村の百姓二人が勤める。増水時は船頭を増員する。
船の交換は十年前後で行う。馬五頭立ての船で、費用は十五、六両から十七、八両かかる。桐生新町から穀場村六十か村へ負担を願い、不足の時は桐生新町で負担し、船を用立てる。
土橋は船頭の費用で架けるが、穀場村の馬持ちや通行する者より少しずつ相対で貰い受けることもある。橋の費用は二両三歩程かかる。
穀場村は六十か村あり、家一軒につき夏は麦一升、馬持ちは麦二升、秋は籾、畑村は粟などを集め運営費とする。遠方の村は銭で受け取ることもある。これらは一年に穀麦三、四十石ほど、粟は八、九石ほど、籾十七、八石ほど、石代銭は八、九貫文ほど積み立てられる。
穀場村以外の往来の者は船賃一人につき普段は銭五文、馬一頭銭十文、増水のときは一人につき十二文より十六文を受け取り通行させ、馬は通行させない。酒代などは受け取らない。これら船賃は一年で約七、八十貫文ほど積み立てられる。橋のときは無料で通行させる。
上記の麦、粟、籾、銭などは船頭がまとめて受け取る。別に給金を支給しないが、船頭が収入不足になることはない。また桐生新町でも穀場村と同じく麦、籾、銭などを船頭へ渡す」
 通行者の船賃(通常時は1人5文、馬1頭につき10文、増水時は1人12〜16文)のほか、船を造る費用(15、6〜17、8両)や橋の建造費(2両3歩)、通行料金・運営費の集金方法(穀場村の場合、穀物で集める)、船頭の報酬などに関する決まり事が詳細に書かれています。安永7年に1人3文であった渡船賃が約30年後の文化6年には5文に値上がりしています。『群馬県史 資料編15近世7』から「文化六年四月 桐生新町渡良瀬川渡船場仕来り上申書」を要約しました。

(14)赤岩の渡しから細谷
@市野倉付近地図(迅速図「上野 太田町」明治18年)

 赤岩の渡しを通行した後は、如来堂村や阿左美沼の東側を通過し、藪塚村から山の神村を通って小金井村へ抜けます。阿佐美村の生品神社あたりから小金井村までは松林の中を歩いています。当時は藪塚村〜山の神村付近は松林が広がっていたようです。

画像
 明治18(1885)年の迅速図「上野 太田町」から現在の市野倉付近を表示します。ピンク色の線は、彦九郎が歩いたと思われる道です。地図記号を見ると、現在の市野倉周辺は広大な平地林であったことが分かります。

テキストには
「猶南へ行きて山の神ノ通りへ出す、西十八丁(約2キロ)斗り大原、巽(南東)二里大田也、酒屋にて酒のミて尾嶋の方への道なり、左り巽へ向ふ、細谷に至るまで巽に向かふなり、松原を三十丁 斗り経て小金井村也」
とあります。山の神村を通過した後、「松原を三十丁斗り経て小金井村也」と記述しており、「山の神ノ通り」から小金井村まで松原が三十丁(約3.3キロ)ほど続いていたことが読み取れます。地図で測ると、山之神から小金井までは約3キロであり、彦九郎の記述の正確さが裏付けられます。

 渡辺崋山の『毛武游記』には、この付近の様子について次のように記されています。渡辺崋山は、天保2(1831)年10月29日に、滞在していた桐生新町から画会に出席するために新田郡前小屋村まで歩いています。そのときに阿佐美村や山の神村を通過しています。彦九郎日記の記述と比較するのも面白いと思います。

「元宿といふ所へ出て赤岩橋とて冬ほどは橋かけて人馬を渡す」
「うしろは吾妻山蜒々仰俯し筆にも言葉にもつくしがたし、新田宿・芝中村、アサミ、生品の森、この森は生品明神といふ神のおはしませばかくはいふ」
「此森を通れば田間に牛の塔あり、藪塚といふ、此間たた田圃の間を行、又やふ木などのおほいたる下を通り終に山之神といふに出づ」
「それよりして大原あり、松並木多くたち林樹径を覆ひ行事一里ばかり山之神に至る」(引用は『桐生市史上巻』より)   「やふ木などのおほいたる下を通り」(藪木などが覆っている下を通り)や「松並木多くたち林樹径を覆ひ行事一里ばかり」(松並木が多くあり、樹木が道を覆う場所を4キロほど行く)などとあり、深い松森が広がっていた江戸時代の山之神や藪塚付近の景観をうかがい知ることができます。 

A松並木の風景(太田市新田市町)

画像
 彦九郎らが歩いた松林は、現在は開拓され住宅地や工場、耕作地などに変わっていますが、新田市町付近などに一部、松並木が残り、平地林であった頃の片鱗が垣間見られます。

 『上州の諸街道』(相葉伸編 みやま文庫 1971年)「古戸街道」(矢島力)の章に「この街道(河岸街道)付近はかつては深い平地林であり、江戸時代には御用材として江戸送りされていた」とあります。
 河岸街道の通称、蛙又(かえるまた)三さ路に昭和8年の道しるべが残っています。「北 大原ヲ経テ大間々」「西南 綿打村金井ヲ経テ境」「東南 市野井ヲ経テ木崎」「昭和八年六月建立 生品村山林保護組合」などの文字が読めます。「生品村山林保護組合」の建立であることから昔は、この付近一帯が平地林であったことがうかがえます。

B市野倉南東側道路(太田市新田市野倉町、以下C同)

画像
 市野倉南東側道路の写真です。
 昭和10(1935)年に旧生品村北部の平地林に陸軍の飛行場が建設されます。正式には陸軍熊谷飛行学校新田分教場といいます。『新田町誌』によれば、飛行場建設予定地は「当時、生品村北東部で旧強戸村、藪塚本町に隣接する広範な平地林の一部」であり、4分の3が松林で、残りはナラなどの雑木林であったそうです。飛行場の建設により生品村北部山林の約6割が消えたということです。
 飛行場の大きさは、東西約1850メートル、南北約1350メートル。総面積は約249万平方メートル。工事は2年間で、昭和13(1938)年3月に最初の練習機が飛んだと『新田町誌』にあります。
 終戦後、飛行場跡地は農村集落として開拓(現在の市野倉地区)されました。中島飛行機太田製作所内の離職者たちの失業対策として計画され、復員軍人や海外引揚者を中心に地元や近隣の村々から入植者を募集し、各役場の推薦や抽選により入植者が決められました。

C飛行場記念碑「陸鷲修練之地」

画像
 市野倉地区の南東角地に飛行場記念碑が建てられています。「陸鷲修練之地」「少年飛行兵操縦教育校 旧熊谷陸軍飛行学校 新田教育隊跡地」「平成七年八月 終戦50周年記念」などの銘があります。この碑の詳細を私は知りませんが、旧飛行場の関係者によって建立されたものと察します。

D道標(太田市新田小金町)

画像
 市野倉南方の耕作地の間を通る小道(新田小金町地内)に道しるべ(「名木ぐみの木」)があります。
「北 山ノ神ヲ経テ桐生方面」 「南 東 小金井ヲ経テ太田方面 西 村田ヲ経テ尾嶋方面」 「北西 大原ヲ経テ大間々」 「昭和八年六月」などの銘がありました。
 上にも引用した『上州の諸街道』「古戸街道」に以下の街道が紹介されています。

「大間々の銅山街道から分かれて、現桐生伊勢崎線をこえて藪塚に入り、三島神社のあたりから街道橋古墳付近を南下する道があった。この道は、山之神で旧生品飛行場を横切り松尾神社から小金井に入った。途中には今でも道しるべの木が石囲いされて立っている。さらに南進して脇屋正法寺、別所円福寺をへて飯玉神社から由良の島岡酒造店の西を通り細谷に出て、冠稲荷神社辺から蛇川沿いかで東南に進んで古戸に至っていた。
 古い道で、今ではその全行程をたどるのも困難であるが、藪塚や小金井辺の人々は現在もこの道のことを古戸街道とよんでいる」

 この街道の経路は彦九郎らが歩いた経路とおおむね同じと思われます。ここに触れられている「道しるべの木」が上の写真の道しるべわきに立っていたようです。現在、木はなく、石柱の道しるべのみが残っています。

E脇谷観音(正法寺)(太田市脇屋町)

 小金井村から脇谷村へ出ます。彦九郎は、脇谷村の脇谷観音(正法寺)について少し書いています。
「脇谷村観音二重門也、三間四面堂也東向也、大イなる鰐口有」
画像
 写真は正法寺の仁王門です。貞享二(1685)年建立、享和三(1803)年改築。(太田市教育委員会の解説板による)
 重厚でたいへん素晴らしい造りの山門であると思います。山門の仁王像も迫力があり、秀逸な造形です。双方とも一見の価値ありです。山門の扁額の下に彦九郎が「大イなる鰐口」と書いた立派な鰐口も見えます。

F飯玉神社(太田市由良町)

画像
 飯玉神社(由良町)の鳥居と社殿です。
彦九郎は
「由良村の溜メのはたへ出てて飯玉大明神へ寄る、南向、石の鳥井有り」
と記しています。「溜メのはた」とあるように当時は、飯玉神社付近に溜池があったようです。明治18(1885)年の迅速図を見ると、確かに飯玉神社の西側に溜池が確認できます。地図から判断するにけっこう大きな溜池であったようです。現在は畑と住宅地になっており、神社付近に池は見当たりません。

 飯玉神社を参拝した後、大道(日光例幣使道)へ出て細谷の家へ戻っています。

 以上、講演会の所感も含め10回にわたって長々と書いてきた高山彦九郎記念館講演会メモを終わりにします。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
折々の雑感131 高山彦九郎記念館講演会「『忍山湯旅の記』の跡をたどる」メモその9 電撃! 激坂調査隊が行く/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる