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zoom RSS 折々の雑感130 高山彦九郎記念館講演会「『忍山湯旅の記』の跡をたどる」メモその8

<<   作成日時 : 2017/08/13 01:24   >>

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 懲りずに続けます。彦九郎講演会メモの8回めです。前回は、雷神岳登拝の後半、下山後のことを少し書きました。今回から帰路の様子(その前半)を書こうと思います。

 彦九郎ら一行は、2週間あまりの温泉逗留を終え、いよいよ細谷に帰ることになります。8月13日の晩に宿代の精算をし、8月14日の朝に忍山湯本を出発します。
 帰路の経路は、忍山から桐生新町までは来た道をそのまま同じく歩いています。桐生新町を過ぎた後は、松原の渡しを利用した往路とは異なり、桐生新町の出口より西へ向い、本宿村(現在の元宿町)と下新田村の間にあった赤岩の渡しにて渡良瀬川を渡ります。 そのあとは、阿佐美村、藪塚村、山の神村、小金井村、脇谷村などを経て由良村を通過し、細谷の自宅に戻っています。阿佐美村は現在のみどり市笠懸町阿左美、藪塚村、山の神村、小金井村、脇谷村、由良村は、それぞれ現在の太田市藪塚町、山之神町、新田小金井町、脇屋町、由良町です。
 
(12)忍山から桐生新町
@城山(桐生市梅田町、以下A〜E同)
A柄杓山城址入口
B柄杓山城址案内板
C城山山頂(柄杓山城址本丸跡)

 浅部村と高澤村を過ぎて湯澤村に入ると、北西の方向に城山が見えます。城山について日記には
「湯澤村右乾の方山有り城山といふ也」
「御屋敷といふ所より右に城山有り、是レ桐生又二郎の城跡なり」
「城山へ登り十丁斗りといふ、通りに小流を渡る也、是レ城の堀水といふ」
などと書かれています。

 城山に関連する写真を4点、表示しました。梅田一丁目あたりから城山を見上げたもの、柄杓山城址入口の看板、柄杓山城址案内板、それに城山の山頂(柄杓山城址本丸跡)を写したものです。

画像
上の写真は城山山頂。桐生城の本丸跡であることを伝える石碑などがあります。

 城山は『桐生市ことがら事典』「柄杓山」の項に以下のような概説があります。
「観応年間から戦国末期まで桐生氏・由良氏の二家にわたる城址。本丸、二の丸、三の丸をはじめ堀切、竪掘、曲輪など中世山城遺構を残す。山麓の渭雲寺(いうんじ)周辺は居館。御屋敷・城下・大門という地名も残る。別名、城山(じょうやま)。柄杓を伏せた形から名付けられた。東側の山腹は桜の名所。桐生市街が遠望できる」

 なお、上記の説明にある「桐生氏」は、実は佐野氏であったことが近年の研究により明らかになっています。佐野にあった佐野氏と区別して、とくに「桐生佐野氏」と呼ばれているようです。(『桐生佐野氏と戦国社会』桐生文化史談会編 岩田書院 2007年)
 従来、言われてきた由良成繁が桐生氏を攻めて桐生城を落城させたという話は、史実ではなく、『関八州古戦録』や『桐生老談記』などの軍記物に書かれた話であり、史実を題材にした創作に近いものであるとのことです。『桐生老談記』などは、江戸時代中期の成立で、いわば現在の歴史エンターテーメント小説のようなもの、同時代の史料とは言えず、それら軍記物の叙述と史実とは明確に分けるべきであるということのようです。
 以上の話は、詳しくは『桐生佐野氏と戦国社会』を参照ください。また『山紫水明〜桐生の山〜』(増田宏 みやま文庫 2015年)の「城山(柄杓山)」の項に大筋が概説されています。

D鳳仙寺山門

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 城山を見て、西方寺を過ぎると、鳳仙寺があります。鳳仙寺については
「大門の中に右黒門有り、入りて壱丁の余に門有り、入りて石階を上る、作り木のさつきなる多フし、左り大小学寮各一ツ有り白壁也、石階をまた上りて二重の二重門有り、□□掛り鐘堂有り、門を入りて左禅寺右にあり本堂大イ也、是レ桐生鳳仙寺也、洞家宗也(中略)本堂辰向也、通りより二丁斗也、大門坂にてよし」
と境内の様子を事細かに記録しています。

  鳳仙寺に関連して彦九郎の日記中に
「是レ由良家の氏立し寺といふ、今に横瀬するが殿のぼだい寺といふ」
「堂は爰にて横瀬するが殿法事せると也、鳳仙の法事也」という文章があります。
 ここに書かれる「横瀬するが殿」とは誰のことなのか、「横瀬するが殿法事せる」とは何のことを指しているのか、などといった疑問が前々からあり、これがよく分からなかったったのですが、今回、『桐生市史別巻』中の「鳳仙寺」の項を読んでいて、その疑問が晴れました。そこに以下のような説明がありました。
 享保12(1727)年の6月に由良成繁の150回忌法要が鳳仙寺で執り行われた。それを申し入れたのは、由良成繁の6代の孫にあたる横瀬貞顕とその子(つまり成繁7代の孫)の横瀬貞国である。
 どうやら彦九郎が書いている「横瀬するが殿」とは、この成繁6代の孫である横瀬貞顕であるらしいことが分かりました。法要に際して書き残した経文の末尾に「源成繁六代孫 従四位下侍従兼駿河守横瀬源貞顕 敬白」、「源成繁七代孫 横瀬式部源貞国 敬白」とあるそうです。「横瀬するが殿法事せる」とは、横瀬駿河守貞顕が由良成繁の150回忌法要をおこなったということのようです。

E由良成繁の墓(鳳仙寺境内)

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 鳳仙寺の境内に由良成繁の墓があります。現在、由良成繁の墓とされる五輪塔は、戦国末期のものとは形状が異なり、江戸中期に造られたもののようです。少し長くなりますが、『桐生市史別巻』「鳳仙寺」の項より以下を引用しておきます。

「由良成繁の死去 成繁は桐生に隠棲後六年にして、天正六年六月二十九日病死した。(中略)その葬儀は鳳仙寺で執り行われたが、住持が当時にはまだ大領主の葬儀を行う充分の資格が得られていなかったので、本寺金竜寺の和尚が大導師となって、荘厳にとり行われたのである。(中略)成繁の遺骸は鳳仙寺本堂の裏山に葬られたので、現在ここが墳墓として残されている。
 扨(さて)現存の墓石であるが、この退化型の五輪塔は江戸中期に建造された型であって、戦国末期のものとは異なるものである。戦国末期のものは、これより大体小型であり地輪若しくは水輪に銘文が存する。これは各輪に祖師西来意の句一字宛に配して、地輪に中山習得居士、天正六年戊寅六月晦日と記してある。したがってこの墓石は、五輪の退化型のもので元禄、享保頃盛行したもので天正の頃のものでなく、江戸中期頃に再建したものであろうと考えられている」

F三宝荒神(押出の荒神宮)(桐生市天神町)

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 彦九郎らは、鳳仙寺の次に、押出村の三宝荒神とその別当寺である神恵寺に立ち寄ります。日記には次のように記しています。
「□□村の入口右に石鳥井有り、前殿有り、是レより直立の石階を百四十一階登りて堂の如き社有り三宝荒神也、鳥井の額には大荒神と書せり、東北也、下りて別当神恵寺に寄る」
 石階の段数を141段と細かく数え記録している点が彦九郎の性格をよく表しているように思うのですが、いかがでしょうか。
 
 三宝荒神(さんぽうこうじん)社は、『桐生市史別巻』「押出の荒神祠」のよれば
「天神町三丁目西側の高地を荒神山という。その下の山際に今も荒神祠がある。(中略)神恵寺は今の荒神社の前方隣接地にあり、別当寺であった。(中略)もとの荒神社は荒神山の中腹にあり、その遺址には現在も礎石の一部を残している。
(中略)現在の社は文中(彦九郎の記述)の前殿の位置にある。百四十一と正確に彦九郎大人が数えた石階は、今は完全に取去られてそのあとは今だに地肌をあらわしている。
(中略)荒神はかまどの神」となります。

G吾妻権現の石祠(吾妻山山頂)(桐生市川内町、宮本町)

 押出村では右側に吾妻権現の山が見えた、とあります。
「おん出し村右に吾妻権現の山見ゆ高し」

画像
写真は吾妻山の山頂に祀られている吾妻権現の石祠です。

 そのあと、桐生新町に入り、天神(天満宮)、三輪大明神(三輪神社)などを見ます。彦九郎は、ここでも桐生新町の様子について言及しているのですが、桐生新町と天満宮については、往路の説明をした際にも触れているので、今回は省略します。

 桐生新町を出て、西に進み、赤岩の渡しに向かいます。この付近の様子については
「町の出口に聖眼寺といふ寺有り、町の出口左り足利道也、右へ出て原有り、(中略)遊女町のよし云ふ、原を西へ十丁斗り行きて赤岩の渡し也、西の方に高津戸の城山見ゆ、桐生新町より大間々町へ西二里有り」
と書いています。「原」は本宿村の小字名です。本宿村の原は遊女町であると彦九郎は聞いたようです。
 また、彦九郎の日記には「町の出口に聖眼寺という寺がある」と書かれているのですが、聖眼寺があるのは、元宿町の、渡良瀬川の近くであり、桐生新町の出口にあるのは浄運寺(本町六丁目)ではないか、という指摘が参加者の方からありました。
 
 今回はここまでにします。次回は赤岩の渡しを渡るところから始めたいと思います。

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