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zoom RSS 折々の雑感128 高山彦九郎記念館講演会「『忍山湯旅の記』の跡をたどる」メモその6

<<   作成日時 : 2017/07/29 02:39   >>

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 彦九郎講演会メモ、今回で6回めになります。思っていたよりもずいぶん長くなってしまっています。だれも読まないだろうな、などと思いつつ、始めてしまった手前、懲りずに続けます。今回は雷神岳(なるがみだけ、現在の鳴神山)登拝についてです。

 彦九郎は、忍山逗留中の8月10日に、八五郎という人物の案内で従弟の政徳とともに雷神岳に登っています。この日は日がな一日歩き通し、朝、宿を出発して真夜中の12時頃に宿に戻るというハードな山行だったようです。
 
(10)雷神岳(鳴神山)
@鳴神山周辺地図(5万分の1地形図『桐生及足利』昭和27年)

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 旧い5万分の1地形図『桐生及足利』から鳴神山周辺の地図を表示して、この日の山行の概略を説明しました。
 彦九郎らが歩いた経路は、おおむね以下のようになります。

 忍山湯本から高沢山稜(忍山川と高沢川の間に連なる尾根筋)を越えて高沢川の谷に出ます。この間は、道のない山中を強行突破しています。登山用語でいうところの藪こぎですね。そして大瀧口から鳴神山に登り、山頂に立った後、同じ道を下山します。忍山湯本への帰り道は、高沢川沿いに下って桐生川に沿う街道(現在の桐生田沼線)に出て、そこを北上し忍山まで戻っています。

 テキストには
「温泉明神の前へ出でて明神より半町ばかり北より西へ山を登る、道もなき所などの急なる所を西北と半里計り登りて山の頂也」(ここでいう「山の頂」は高沢山稜の尾根)
「西に高澤人家見ゆ、戌の方に(こつ)と泉山に秀てて高きハ雷神岳也」
「是レより道もなく木の茂ミの中を分け行く事甚だ岨也、木かやに取り付きて漸漸(ぜんぜん)西北に下りて人家辺に至る」
「是レより谷間を南に行きて右大瀧口に至る、是レより岳まで二十一丁と石に記るせり」
などとあります。要約すれば次のようになります。
 温泉神社の前に出て、神社から50メートルほど北から西へ山を登った。道もないような急な場所を西北へ2キロほど登ると尾根の頂点に着いた。
 西に高沢の人家が見える。西北西の方向に他の山々よりもひときわ高くそびえている山が雷神岳である。
 ここからは道もなく、茂みの中を分け行く。とても険しい。しだいに西北に下って人家がある辺りに出る。
 ここから谷間を南に下って右、大瀧口に着く。大瀧口から雷神岳まで二十一丁(約2.3キロ)と石に刻まれている。

A不動堂瀧(大滝)(桐生市梅田町、以下A〜K同)

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 大滝です。
 日記には
「小流にさかのぼる事二丁斗りにて不動堂瀧有り、岩壁の如し、瀧よし、此辺に又た不動堂有り」
と記されています。彦九郎の記述をみると、当時は滝の近くに「不動堂」(どの程度の規模かは分かりませんが)があったようです。現在は見当たりません。以下に示すように不動明王の石仏は残っていますが、お堂の痕跡も見られません。

B不動堂瀧の石仏
 
 大滝に不動明王が祀られています。「宝永六(1709)年九月吉日」の銘があります。

C鳴神山(桐生岳)山頂

 雷神岳の山頂の様子を
「頭上に鐘有り(略)皆ナ鐘を撞く、此ノ上に社有り辰巳向にて二間斗り也、是レ最も高き所也」
と書いています。
 彦九郎らが登った当時は、鳴神山の山頂に鐘が吊るされていたことが分かります。登った人たちはみなその鐘をついたとあります。また山頂には社が南東に向かって立ち、その大きさは3.6メートルほどであったようです。現在は、石祠はありますが、山頂に社殿はありません。(現在の社殿は肩の広場と呼ばれる山頂下の鞍部に建っています)
 この鐘は、宝暦3(1753)年に設置され、その後、文化10(1813)年に改修されているそうです。戦時中の昭和18(1943)年に供出され消滅したといいます。(『桐生市史別巻』)
 さらに鳴神山について「此山は下より見ては兀(こつ)として峯一ツの如くなれと、かく近くを見れば桐生岳と仁田山岳と二峯、実に神霊の在りとて来り詣するも宜(むべ)也」(鳴神山は下から見ると高く突き出ており、一つの峰のように見えるが、近くから見れば桐生岳と仁田山岳の二峰であり、霊験あらたかと多くの人々が登拝するのももっともなことである)との所感を述べています。
 
D鳴神山(桐生岳)山頂の石祠
E鳴神山のアカヤシオ
 
 山頂の石祠やアカヤシオの写真です。アカヤシオは4月の末ごろに撮影したもの。『忍山湯旅の記』とは関係なく、おまけです。鳴神山の風景を伝える写真として参考までに表示しました。

F鳴神山山頂からの眺望(南から西 桐生市街地) 3枚

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 彦九郎は山頂からの眺望をこう記しています。
「南に桐生新町見ゆ、戌(西北西)の方に赤城山見ゆ、辰巳(南東)の方館林也、西に前橋皆晴レたる時はよく見ゆるとぞ、(中略)館林の城なとは小く見ゆるとぞ、坤(南西)方に浅見湖見ゆる」
 南に桐生新町が見えるとあります。いま見ても鳴神山の山頂から桐生市街地はよく見えます。
 西北西の方向に赤城山が見えるとありますが、現在の桐生岳からは仁田山岳の樹木がじゃまをして赤城山はよく見えません。鳴神山から見る赤城山については仁田山岳の近くに絶好の展望地があります。
 前橋や館林城が見えるとありますが、前橋については市街地の広がりとしては確かに見えるかもしれませんが、はっきりどこが前橋とは分からないかもしれません。館林城が見えるかどうかについてはちょっと疑問ですね。もしかしたら昔はいまほどの市街の広がりはなく、大きな建物は目立って見えたのかもしれません。
 さらに南西の方向に浅見湖(阿左美沼)が見えるとあります。阿左美沼(桐生競艇場)は、いまもよく見えます。晴れた日などはその水面が光って見えますよ。

G鳴神山山頂からの眺望(西から北 赤城山、日光連山など) 5枚

 鳴神山(桐生岳)山頂から北側を望めば袈裟丸山や日光の山々がよく見えます。

H雷神岳神社の御狗像 3枚

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 御狗像のうち東側(鳥居に向かって右手)のものには「山田郡梅田村材木商 金田房太郎」の文字が彫られています。梅田村とあるので明治22(1889)年以降のものでしょうか。高澤村や浅部村など桐生北部の村々が合併して梅田村となるのは、明治22年の市制施行後のことです。
 雷神岳神社の御眷族(けんぞく―神の使い)は神狗、いわゆる「山犬」(ニホンオオカミ)です。 神社に置かれるニホンオオカミの像は、「御神狗」(オオカミ)信仰にもとづくものとされています。
 西側(鳥居に向かって左手)の御狗像は 両耳の部分が欠損しています。台座に「昭和四年五月」とあります。

I雷神岳神社の御札(『桐生市史別巻』)

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 『桐生市史別巻』より雷神岳神社の御札の写真を引用しました。
 雷神岳神社神官家であった北山家に伝わる文書群のなかに、明治初期頃まで使用されていたという御札類が残されています。そのなかに御狗の像を描いたものがあり、「嶽神社御神狗 上野国山田郡高澤村 神官北山内膳」と書かれています。雷神岳神社の主神は日本武尊であり、雷神岳神社は神の使い(いわゆる眷属)として御狗が仕える三峯神社の系統に属する神社ということになります。以上は、『桐生市史別巻』「雷神岳神社」の項を参照しました。

J仁田山岳の石祠

 仁田山岳の石祠の写真です。
 かつては桐生岳、仁田山岳の双峰に神社が祀られていました。『山田郡誌』に「西峯にも同じく鳴神山神社を奉祀したるが明治四十年川内村大字山田赤城神社に合併せられ今廃社址の存するのみ」とあり、仁田山岳の神社は明治40年に廃社となりました。仁田山岳の山頂には、神社を囲んでいた石垣が残り、石垣の上には石祠が置かれています。廃社以前には、梅田側、川内側による神楽の奉納があり、神楽殿も稜線を境に向き合い、両村が神楽の競演したと伝えられています。(『桐生市史 別巻』「雷神岳神社」の項による)
 彦九郎は仁田山岳について
「是レ(桐生岳)より乾(北西)の方二丁斗りに仁田山岩山なり」
と記しています。

K雷神岳神社鳥居

 雷神岳神社の鳥居(須永村)です。
 2つの石鳥居があります。鳥居の柱に刻まれた「須永村」と「高澤村」の文字は、いまでもはっきりと読めます。須永村の鳥居には「昭和十一年改修」との文字が見えます。
 テキストには
「仁田山の方の鳥居には須永と有り、是レ仁田山の小名也と云ふ、桐生の方には高澤と有り」
とあります。

(10α)オオカミ信仰の神社

 以下の部分は『忍山湯旅の記』とは直接関係はないのですが、雷神岳神社がオオカミ信仰の神社であることを述べたので、参考としてオオカミ信仰の神社に関連する写真を何枚か表示しました。

 オオカミ信仰について簡単に説明します。
 オオカミ信仰の神社としては、奥秩父三峰に鎮座する三峯神社が有名です。三峯信仰におけるオオカミは、眷属として崇められる以上に、神そのものとして祀られ信仰されるという位置付けでもあります。 オオカミは、「おいぬさま」、「おおかみさま」などと呼ばれ、「大口真神」(おおぐちのまがみ)とも称され信仰を集めました。オオカミ信仰の起こりは、江戸中期、享保年間と言われています。享保5(1720)年、三峯に入山した日光法師が、神の使いとしてのオオカミの御札を配ったことが三峯山繁栄をもたらしたとされています。(三峰神社ホームページ「ご祭神・由緒」、『日本民俗大辞典』「三峯信仰」の項)

 上記と重複する部分もありますが、オオカミ信仰の神社についての説明を以下に引用します。2007年に山梨県立博物館で開催されたオオカミ信仰に関する企画展のパンフレットからの引用です。
「秩父市の三峯神社には、日本武尊(やまとたける)東征の際に山中で霧にまかれて迷ったところを白狗(狼)が現れて救ったという伝説が残る。江戸時代中期の享保5年(1720)に入山した日光法印は、神託により神の使い(眷属)である「お犬様」(狼)のお札を配り始め、荒廃が進んでいた三峯山を再興した。
 神社の由緒を記録した文書(「観音院記録下書」(江戸時代中期以降、三峯神社蔵))によれば、この『御眷属拝借(ごけんぞくはいしゃく)』は甲州周辺より始まったとされる。当初は農村部における猪鹿除けに霊験あらたかであるとされた。その後、火災が頻発し、盗賊が横行していた江戸市中で、火防盗賊除けに効果ありとして信仰が盛んとなった」
「三峯神社同様、御眷属である狼(お犬様)のお札を配る、いわゆる狼神社の分布は山間部を中心とする。山間部の焼畑地帯では猪鹿による作物への被害が深刻であり、これらを食べてくれる狼への信仰が生まれた。作物を盗む害獣を防ぐことから盗難除け、獣を除けることから狐などの憑き物落としが派生した」(山梨県立博物館 展示パンフレット『オオカミがいた山―消えたニホンオオカミの謎に迫る―』2007年より 一部改変あり)
 
 上記のとおり三峯神社をはじめオオカミ神社の多くは日本武尊を祭神とします。雷神岳神社の主神も日本武尊であり、この点で他のオオカミ信仰の神社と共通します。
 
@三峯神社の御狗像(埼玉県秩父市、以下A、B同)

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 三峯神社の御狗像の写真です。拝殿前の石段に置かれていました。三峯神社境内にはおびただしい数の御狗像があり、写真のものは、それらのなかで拝殿に最も近い場所にある御狗像です。

A三峯奥宮(妙法ヶ岳山頂)の御狗像

 三峯奥宮(妙法ヶ岳の山頂)に奉納された御狗像です。奥宮には大きな石祠があり、その周囲に多くの御狗像があります。妙法ヶ岳は、雲取山、白岩山と並ぶ三峯三山の一峰で、三峯神社から1時間ほど山道を登ります。

B三峯奥宮の石祠

C三峯神社、大口真神の御札

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 火事、どろぼう除け。大口真神(おいぬさま、おおかみさま)が描かれています。雷神岳神社神官家に伝わる「嶽神社御神狗」と比較すれば、よく似ていることが分かります。

D釜山神社奥の院(釜伏山山頂)の御狗像(埼玉県寄居町、以下E同)

 釜山神社奥の院(釜伏山山頂)の御狗像です。

E釜山神社奥の院の石祠
 
 釜山神社奥の院の石祠です。祠の各側面には、御狗の彫刻が施されています。後面に「皇紀二千六百年記念 熊谷一信講建立」とあります。「皇紀二千六百年記念」とあることから、この祠は1940(昭和15)年に建立されたものでしょう。

F釜山神社、大口真神の御札

Gニホンオオカミの剥製

 以下はおまけです。
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 東京大学農学部に保管されているニホンオオカミの剥製です。「雌。明治14年、岩手県」とのこと。
「ニホンオオカミとはかつて日本に生息した小型のオオカミである。大陸のオオカミとは別種であるという説と、大陸オオカミの亜種で、列島に閉じ込められ、小型化したという説がある。明治38年(1905)に奈良県で捕獲されたのを最後に、生存が確認されていない。残された標本も少なく、剥製は国内には東京大学、和歌山大学、国立科学博物館の3体が残るのみである」山梨県立博物館展示パンフレット『オオカミがいた山―消えたニホンオオカミの謎に迫る―』2007年からの引用です。剥製の写真も同パンフレットより。

Hオオカミ(北米産、群馬サファリパーク)(富岡市)

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 これはどうでもいい、まさに蛇足的な写真です。群馬サファリパークで撮影した北米にいるオオカミです。体も大きく、顔つきも精悍です。一般的なオオカミのイメージ(例えば「赤頭巾ちゃん」や「3匹のこぶた」などのお話に出てくる悪役のそれ)は、これらの種類のオオカミに起因すると思われます。

 今回はここまでにします。次回は雷神岳下山後のことを書く予定でいます。

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