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zoom RSS 折々の雑感125 高山彦九郎記念館講演会「『忍山湯旅の記』の跡をたどる」メモその3

<<   作成日時 : 2017/07/15 01:53   >>

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「高山彦九郎『忍山湯旅の記』の跡をたどる」の講演メモ、今回で3回めになります。

 講演会で表示した写真や図表を順に説明しています。前回は、細谷を発ってから松原の渡しを渡るところまでを説明しました。今回は、松原の渡しを渡った後、境野村と新宿村を経て桐生新町に入り、天満宮を参拝するあたりまでについて述べたいと思います。

(3)松原の渡しから桐生新町 
@白滝神社(桐生市境野町)

 境野町二丁目(三ツ堀)に鎮座する白滝(瀧)神社です。『群馬県歴史の道調査報告第8集 古戸・桐生道』によれば、この神社のわき(東側)から主要地方道67号桐生岩舟線に出るまでの道は、桐生道の旧状をよくとどめているらしいです。舗装はされていますが、道幅は狭く、現代の感覚からすると車もすれ違えないほどのごく狭い通りという印象です。当時の桐生道は、このくらいの道幅が標準的であったようです。
 テキストでは、境野村については
「境野村を経て桐生新宿に至る」
と簡潔に書かれているだけです。

A境野町二丁目の通り
 
 境野町二丁目の通りの写真です。『群馬県歴史の道調査報告第8集 古戸・桐生道』によれば、この区間も桐生道の旧状が残っているそうです。主要地方道67号桐生岩舟線のすぐ北側の通りで、桐生岩舟線とほぼ平行に走る感じです。少し行くと桐生岩舟線に合流します。いまは、ごく普通の、住宅地のなかの道に見えます。
 講演会当日に同会場の2階ギャラリーで開催されていた「いにしえの道を歩く3〜桐生・古戸道のいま〜」の展示には、境野町二丁目の通りに現存する根本山の道標の写真がありました。この道標については確かに見た記憶があるのですが、写真は撮りませんでした。いま思うと撮っておくべき道標であり、後日、機会を見て撮影しに行こうと考えています。

B機織りに利用されていた水車

画像
 天満宮の境内にある水車(復元)の写真です。機織りの動力に利用されていたものです。彦九郎は新宿村の様子について次のように記述しています。
「左右の人家皆ナ糸織を以て業とす、家の前小溝流る水車を以て綱を家に引はゑて糸をくる、奇異なる業なり、人の身なりもむさむさしからず、わきて女は常に絹織る業を以て戸外に出る事希れなれは色つやも又タ悪しからず」
新宿村では多くの家が織物業を営み、家の前を流れる小溝の水流を利用し、水車を動力に糸繰り作業をする状況が描写されています。ここでいう「糸をくる」とは「かせ状の生糸を枠に巻き取る作業で、機織の準備行程」(『桐生織物と森山芳平』亀田光三著 みやま文庫)のうちの一つです。女性たちがいつも屋内で織物をしているので、外に出ることが少なく、色つやがいいとの所感を表している点が面白いと思います。

(3α)織物の道具・機械

 彦九郎が、水車のある新宿村の景観や織物業が盛んな村の様子について記録しているので、参考のために織物の道具や機械、また明治〜昭和期のものではありますが、新宿の水車風景をいまに伝える写真を表示しました。織物の道具や機械の写真は、桐生市東町にある織物参考館“紫”の展示品を撮影したもの、昔の水車風景の写真は、『明治・大正・昭和 思い出のアルバム桐生』(天利秀雄監修 あかぎ出版 1982年)と『目で見る桐生・伊勢崎・みどりの100年』(郷土出版社 2006年)から引用しました。

@織物参考館“紫”外観(桐生市東)

 織物参考館“紫”の外観の写真です。のこぎり屋根の旧工場が資料館になっています。

Aかせ枠

 かせ枠の写真。かせ枠とは、糸繰りに使う道具で、織り機にたて糸をセットする前に糸を整えるために使います。枠を回転させて糸を巻き取っていくというものです。
 テキストにある「水車を以て綱を家に引はゑて糸をくる」とは、このかせ枠を回転させるために水車を用いていた、ということです。家の外にあった水車に綱をつけて、その回転を家の中のかせ枠に伝えていたのでしょうか。

B高機(たかはた)

 織物を作る道具、織機。腰掛けた状態で、足で踏み木を踏んでたて糸を持ち上げ、そこに手で横糸を通しながら、たて糸と横糸を互いに交差させていく。これを繰り返すことで織物ができます。元文3(1738)年に京都西陣より伝わりました。織物参考館“紫”に展示されている高機は、西陣伝来の高機よりも簡素な作りのものだそうです。

C八丁撚糸機(はっちょうねんしき)

画像
 糸に撚り(より)をかけるための機械です。それまでの糸車は一度に1本の糸しか撚ることができませんでしたが、この機械により一度に十数本の糸が撚れるようになりました。特にちりめんを織る場合に強い撚りをかけた糸が必要とされました。

画像
 撚糸機の錘(つむ)の写真です。写真は錘が20本余り並んでいる部分。撚糸機上部の車を回すことで、その回転を綱につながれた錘(つむ―先端に細い棒のついた糸を巻き取る部品)に伝えて、錘の先端にらせん状に巻きついた糸を回転させながらねじっていきます。こうして撚られた糸が機械下部の両脇の棒に巻き取られていきます。錘の並びは左右に2つあって、それぞれ右撚り、左撚りの糸が同時に作られます。

D糸車

 糸に撚りをかけたり、糸を紡いだりするときに使う道具。八丁撚糸機は、撚り糸が大量生産ができるよう、この道具を改良し発展させたものといえます。右手で車を回し、左手で糸を軽く持って、糸を撚ったり、紡いだりしたということです。

E ジャカード織機(しょっき)

 パンチカード(紋紙)を用いて制御を行います。カードの入れ替えにより織物の模様を変えられるそうです。明治以後に導入されたもので、『忍山湯旅の記』とは直接の関係はありませんが、織物参考館“紫”の展示により初めてその動きを見たとき、メカニカルな作動に感動を覚えたので蛇足ながら紹介しました。

F新宿の水車風景(明治末期)

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 明治末期における新宿の水車風景の写真です。『明治・大正・昭和 思い出のアルバム桐生』(天利秀雄監修 あかぎ出版 1982年)より。
 写真には「高山彦九郎、渡辺崋山など江戸の昔から来桐した多くの人々はこの水車風景に感嘆し紀行文の中で讃えた」、「水車は糸繰りや撚糸、精穀として使われる」、「十数基と並ぶ水車風景は壮観を極め来桐する人々を驚かせた」 などの説明書きがあります。

G水車風景(昭和16年)

 昭和16年の水車風景の写真です。『目で見る桐生・伊勢崎・みどりの100年』(郷土出版社 2006年)より。「上げ下げ」水車。八丁撚糸機の動力として用いられたとの説明があります。

(4)桐生新町
@本町通り現況(桐生市本町)

画像
 現在の本町通りの写真、旧盛運橋付近より北側を写したものです。

 テキストには桐生新町に関する記述は多いです。以下のように書かれます。
「新町は南北への通り也、六丁ばかり人家多フし、町の中溝流る、是レも水車を以て糸をくる、富家多フし」
「新町の中右の方市神の社有り、社前に鞠場有り、此(所)さや縮緬りんずどんすりうもんななこ絹はた等多フく出るを以て繁花にして人驕奢の風有り、上方の人売買の利を得んが為メに多フく入り込む故上ミの風をも少しくまじゆ」
「上毛は絹を多フく出す所といふ、わきてこの辺多フし、凡そ四海半はをつくのふと云い伝へたり、新町の市三七の日なり」
 桐生新町の通りは南北に延びており、約654メートルほどあって人家が多い、また新宿村と同じく、町の中に溝が流れており水車を利用して糸繰りをしている、富む家が多い、などと描写しています。
 絹織物を大量に生産しているため人の出入りも多く、町は繁栄しており、人々の様子はぜいたくにも見受けられる。絹織物の売り買いで利益を得ようと京都から人がやってきており、京都の風俗、風習なども交じっている、との所懐を述べたりもしています。
 上野国は絹織物の生産が多い所であり、なかでもとくに桐生周辺地域は絹織物の生産が盛んであると書いています。「凡そ四海半はをつくのふ」とは、「四海」を国内という意味にとれば、絹織物の国内生産の約半分を桐生地域が担っている、との解釈ができそうですが、確信はありません。
 「新町の市三七の日なり」とあるのは、月六斎三七の日(3日、7日、13日、17日、23日、27日の6日)に桐生新町で絹市が開かれていたということです。
 「さや、縮緬、りんず、どんす、りうもん、ななこ」とあるのはすべて絹織物の種類です。初めて『忍山湯旅の記』を読んだときは、呪文か暗号のようで何の事だかよく分かりませんでした。
 それぞれの織物について簡単に特徴を列挙すると以下のようになります。ただ、どんなものなのか文字だけでは具体的にイメージできないと思います。グーグルなどで画像検索をすると各織物の写真がたくさん表示されますので、特徴が把握できるでしょう。本当は現物を見るのが一番だとは思いますが。

1紗綾(さや)
光沢のある絹織物で、稲妻・ひしがき等の模様を浮き織りにしたもの。もとは舶来品。
表に出る横糸が斜めに走るように見える(綾目)。斜紋織りとも。斜紋は稲妻形や波形になり、工夫によりバリエーションに富む。柔らかく、しわになりにくい。高機導入後に最初に量産された。

2綸子(りんず)
絹の紋織物の一種。織ってから精練したもの。紗綾に似て光沢があり、なめらかで、粘りけが強い。普通これを本綸子といい、横に錦糸を使ったものを錦綸子という。帯地・羽織の裏地などとする。
生地に紋様(地紋)を織り込む。菊水、亀甲(きっこう)、唐草、幸菱(さいわいびし)紋など長寿、子孫繁栄、健康、成長などの吉祥の願いが込められた紋様が多い。友禅や小紋などの着物に好んで使われる。

3緞子(どんす)
紋織物の一種。練り糸で織った繻子(しゅす)織りの絹織物。厚地で光沢がある。夜具・座ぶとん・帯・緞帳(どんちょう)などに用いる。

4繻子(しゅす)
縦糸および横糸が浮いた組織のもの。表面はなめらかで光沢があるが、地質は堅牢でない。帯地・婦人服地・かさ地などに使われる。天正年間(1573〜92)京都の織工が中国の方法にならってこれを織り始めたという。種類が多い。
縦糸を浮かせる比率が高い→絹糸自体の光沢を生かし織物の上に出す。見た目には生地が縦糸だけで覆われているように見える。光沢が強く、手ざわりが柔らかい。

5竜紋(りゅうもん)
(綾文(りょうもん)のなまり) 羽二重(※)に似て糸が少し太く、織目が斜めで地質が厚く、白色で光沢がないもの。江戸時代には、多くはかま地とした。
※羽二重
織目が細かく、なめらかでつやのある平織りの絹。日本の諸織物のうち最も古く、仁徳天皇の時、諸国から献上した布の中にあったという。礼服・羽織裏などに用いる。撚り(より)のない糸を使う。絹糸の光沢と柔らかな肌ざわりをそのまま生地にしたもの。

6斜子(魚子)(ななこ)
織目が細かで斜めに行き違い、魚の子(外観が魚卵のように粒だって見えるところから魚子と呼ばれた)状をしたもの。多くは羽織地とする。

7縮緬(ちりめん) 縦糸に撚り(より)のない生糸、横糸に撚りの強い生糸を用いて平織りにしたのち、ソーダ入りのせっけん液で数時間煮沸して縮ませ、水洗いしてのりを取り乾燥させて仕上げたもの。
糊(のり)をきかせた状態で織り、織りあがってから糊を落とす→撚りの応力と緊張が解放されて、しぼと呼ばれる独特の凹凸が生まれる。

 以上は『広辞林』、『広辞苑』、『西の西陣 東の桐生』(岡田幸夫 上毛新聞社 2006年)などを参考にしました。

A本町二丁目、一丁目辺りの景観 4枚

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 往昔の桐生新町の景観が感じられそうな本町通りの写真を4枚ほど表示しました。天保元(1830)年創業のうなぎ屋、重厚な商家の建物(矢野園)、白壁の旧商家、土蔵など。さらに矢野園より路地を東へ入った場所の写真も表示しました。白壁の土蔵や黒塗りの板塀などに往時のたたずまいが感じられます。
 上の写真は、本町一丁目辺りの景観です。通りに面して旧商家の白壁の建物やその土蔵などが見えます。天満宮を背にして南側を向いて撮影しました。
 

B天満宮拝殿(桐生市天神町) 2枚

 天満宮拝殿の写真を2点、表示しました。彫刻が見事です。
 テキストには天満宮について
「町の出口左り天神の社鳥井有り、石橋を渡りて壱丁斗り入りて流れ有り、板の反り橋屋根有り、渡りて社有り、左に観音堂右鐘つき堂天神の社大イ也、拝殿を入りて拝す」
とあります。

(4α)桐生新町重伝建に選定

 彦九郎が当時における桐生新町の状況を活写していることに関連して、参考として桐生新町の町並みを思い描けるような資料を提示したいと考え、桐生市本町通りが重要伝統的建造物群保存地区に選定されることを報じる記事のコピーや大正期および昭和初期における桐生本町通りの様子が写し出された写真などを準備しましたが、当日は表示しませんでした。

@「桐生新町 重伝建に選定」の記事(2012年5月19日付朝日新聞群馬版)
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A本町通りの街並み(大正時代)

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 大正時代の本町通りの街並みを撮影した写真(桐生市立図書館蔵)。写真の説明には「金善ビルから天満宮方面を望む。左手前の尖塔は足利銀行」とあります。

B本町5丁目の通り(大正4年)

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 大正4(1915)年11月10日に撮影された本町5丁目の通りの写真。写真には「大正天皇の御大典(即位の礼)を奉祝する。各家に日の丸提灯が掲げられている。通りの右側のビルは四十銀行」などの説明があります。

C天満宮鳥居前(昭和16年)

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 昭和16(1941)年2月11日に撮影された天満宮鳥居前の写真(桐生市立図書館蔵)。「紀元節の日に天満宮で入魂式が行われる。建国祭を行う新川球場に向けて天満宮から行進を開始した。戦時下、国民の志気を昂揚するための行事」といった説明があります。

 A〜Cの写真は『目で見る桐生・伊勢崎・みどりの100年』(郷土出版社 2006年)より引用しました。

 今回はここまで。次回は忍山温泉について説明したいと思います。

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