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zoom RSS 折々の雑感124 高山彦九郎記念館講演会「『忍山湯旅の記』の跡をたどる」メモその2

<<   作成日時 : 2017/07/08 17:37   >>

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「高山彦九郎『忍山湯旅の記』の跡をたどる」講演メモの続きです。

 前回、講演会で表示した写真や図表の一覧を載せました。今回は、それらについて『忍山湯旅の記』の記述(以下テキストと表示)と対比しながら簡単に説明します。なお、写真はすべてを貼付すると多くなるので、主なものにとどめました。

(1)細谷から丸山
@高山彦九郎宅跡地と解説板(太田市細谷町)
 
 まずは旅の出発地点である太田市細谷町の彦九郎宅跡の現況写真から。現在は畑となっています。高山彦九郎記念館の東側です。太田市教育委員会による解説板が立っています。
 テキストには
「五ッ過ぎに叔万郷細谷村に至り玉ひて四ッ時分に細谷村を立ッ、僕は臺村より具せられたる源七也」
とあります。「五ッ」は午前8時、「四ッ」は午前10時ごろです。「叔万郷」は彦九郎の叔父の「万郷」、「万郷」とは通称のようです。この「万郷」は彦九郎日記によく登場するらしいのですが、誰を指しているのかは、確定されていないそうです。このことに関して正田喜久氏は以下のように書いています。
「『万郷』は細谷村ではなくその近村に在住し、しかも親しい縁戚の人物であることがわかる。細谷村在住でなく親しい親戚で、高山彦九郎に大きな影響を与えた重要な人物は台村の叔父剣持長蔵正業であるが、日記には長蔵は『長叔父・台村叔父・正業叔父』などと区別している。すると、これ以外の人物としては叔母みちが嫁した西野村(現熊谷市西野)の高橋与兵衛吉興に思いいたる。果たしていかがだろうか」(「日記中の『万郷』とは誰のことか」高山彦九郎研究会会報第11号 2008年)
 テキストにある「臺(台)村」は、武州幡羅郡台村(現熊谷市妻沼台)のこと。叔父の剣持長蔵の家がありました。台村の源七を下男として連れてきた、ということでしょう。

A鳥山町の通り現況(太田市鳥山町)

 細谷村を発った後、由良村と新野村を通過し中鳥山村に至ります。
テキストには
「由良村より北新野の原へ懸りて新野村の人家を経て縄手を東北へ越へて中鳥山の宿と云ふ所へ出つ、東西の通りにて(此所)古は宿ならん」
とあります。
「縄手」とは田んぼの間の道、あぜ道をいいます。中鳥山の東西の通りは、昔は宿場だったと書いています。
 鳥山の酒造店の写真を表示しました。この酒造店のある東西に延びる通りは、旧家然とした家々が並び、趣があります。なお、この酒造店の創業は彦九郎が立ち寄った頃よりずっと後のことです。

B金山山稜遠望

 金山山稜を西側から遠望した写真です。
テキストには
「是れより北上鳥山の方へ行きて堀を橋にて渡り郷戸(強戸)村也、東に金山の松茂きに麓稲の蒼みたる所いとよし、北には小高き所に人家並ひて是レもまたよし」
とあります。

C如意輪観音像(道標)(太田市吉沢町)

 新田掘沿いの旧道におかれている道標を兼ねた如意輪観音像(安永二年十月?)の写真です。「東 足利町 桐生町道」「西 大原宿 伊勢崎道」の文字があります。
テキストには
「…人家の前を堀流る是レを新田掘と云ふ也、…小坂を経て萩原是レ金山の北にて此辺より山田郡なり」
とあります。

D丸山全景(太田市丸山町)
 
 丸山の写真です。
テキストには
「東に丸山の里、米山の薬師堂見ゆ、小山にして後は巌にしてやや笠置の思いを起す」
とあります。
 丸山については『山田郡誌』に
「米山(丸山) 毛里田村大字丸山の田圃中に屹立する円錐形の小丘なり。山名の丸山は山形に基き米山の名は越後国米山薬師を奉遷したるより称せられたるなり。地質は古生層の硅岩にして地形学上の地塁に属すべきものなり。この山海抜100米、比高五十米内外に過ぎざるも全山松樹鬱蒼として風致頗る愛すべきものあり」(抜粋)との解説があります。

E丸山宿現況(太田市丸山町)

画像
 現在の丸山宿の様子です。道の中央に小溝が流れ、往時の佇まいが残っています。通りの奥、正面に丸山が見えます。『忍山湯旅の記』には丸山宿の描写はありませんが、足利小俣の石尊山へ参詣に行った際の日記『小股行』(安永8年7月7日)には
「丸山ハ町並屋作東西の通也はたこやもみゆ、宿の中小溝流る、西に米山薬師堂建ツ」
と書かれています。

F米山薬師(太田市丸山町)

 米山薬師の堂の写真です。
テキストには
「此山を米山と號するは越後國に米山の薬師とて霊佛有り是レを以ての號ならん」
とあります。

(1α)石尊山、梵天上げ
@石尊山の幟旗(足利市小俣町)
A石尊宮(石尊山頂)
B梵天上げの様子 
 
画像
 石尊山の梵天上げの様子を撮影した写真です。『忍山湯旅の記』とは直接の関係はありませんが、丸山宿の描写を『小股行』から引用したので、参考までに掲げました。杉の丸太を石尊山の山麓から山頂まで担ぎ上げ、山頂にて幣束を突き刺して梵天を作り、それを立ち上げるという伝統的な祭事です。8月のお盆の頃に行われます。

(2)丸山から松原の渡し
@新田掘り沿いの道(太田市吉沢町)

 太田市吉沢町辺りで新田掘り沿いの道の様子を撮りました。江戸時代には桐生古戸道(きりゅうふっとみち)と呼ばれた旧道です。桐生の絹織物を江戸へ輸送するために盛んに利用された道です。彦九郎も丸山から桐生新町までは、この道を利用したものと推測されます。
 折しも金山城跡ガイダンス施設では展示会「いにしえの道を歩く3〜桐生・古戸道のいま〜」(6月3日(土)〜7月9日(日))が開催されており、丸山から桐生新町までの写真は、ここで展示されていた写真とおおむね重なることになりました。
 テキストには
「人家の前を堀流る是レを新田掘と云ふ也」
「左に山を見て北に行きて吉澤村人家西を山にして東を新田掘の本流れて清き里也」
などと書かれます。

A庚申塔、馬頭観音石塔(太田市吉沢町)

 吉沢町反丸地区の道の右(東)側に大きな梵字(ウーン)の庚申塔(寛政12(1800)年)と大きな馬頭観音(弘化3(1846)年)があります。
 これは『群馬県歴史の道調査報告第8集 古戸・桐生道』に紹介されていたので撮りました。展示会「いにしえの道を歩く3〜桐生・古戸道のいま〜」でも同じ石仏の写真が展示されていました。

B岩神様(石神明神)石窟(太田市吉沢町)

画像
 岩神様(石神明神)の石窟の写真です。地元では八王子様というそうです。横に昭和54(1979)年に吉沢から移されたという赤城神社の小さな鳥居と小社があります。
 テキストには
「堀の向ふ岩山のもとに石の小祠有り、石神明神と号するとそ、火打石出ツ」
とあり、
「道より見るに物すこく暗きところ也」
と描写されています。

C賀茂神社鳥居(桐生市広沢町)

画像
 賀茂神社の鳥居の写真です。
 テキストには
「下廣澤村左り壱丁斗り入りて山の下に社有り、鳥井東に有り、正一位加茂大明神と額に書せり」
とあります。
 彦九郎はこの神社に参拝し、社殿など境内の建物の造作や大きさなどを描写しています。そこで社家の老人に神名などを尋ねるのですが、この老人はそれに答えることができず、横にいた婦人が加茂の神で別雷(わけいかつち)の命であると答えます。これに対し、彦九郎は「社家が愚かなので諸国の神の多くが仏のために勢力を奪われている。これは痛むべきことだ」と述べています。それにもかかわらず社家に御神酒代として「十二銅」を納めています。彦九郎の神への信心深さがうかがわれるエピソードかと思います。

D太田頭首工(渡良瀬川、旧松原の渡し付近)(桐生市広沢町)

画像
 太田頭首工のゲートの写真です。頭首工とは河川から農業用水を取水するために設けられた堰、水門のことです。昔はこの場所に待(まち)堰という堰があり、ここから取水し新田堀(新田用水)に引水していました。
 松原の渡しは、太田頭首工のやや下手に位置していたと伝えられています。
 テキストには
「松原の渡し也、是下廣澤村の中なり、渡しのこなた新田掘の源(みなかみ)渡瀬川より分る、ここを歩渡りす、凡ソ三十間斗り也、渡りて綱越しにて渡瀬川を渡る、川幅凡ソ壱丁斗北へ渡る也」
とあります。渡良瀬川は、昔は「渡瀬川」という表記もされたようです。「三十間」は約54メートル、壱丁は約109メートルです。「新田掘の源(みなかみ)渡瀬川より分る」とあるのは、新田堀の水源は渡良瀬川であり、松原の渡し付近より引水していたということです。「綱越し」とは「ろや棹を使わず、両岸にわたした綱をひきながら、船を動かすもの」(『群馬県歴史の道調査報告第8集 古戸・桐生道』)をいいます。

E松原の渡し絵図(『根本山参詣路飛渡里案内』より)

画像
 『根本山参詣路飛渡里案内』(安政6年)に掲載される松原の渡し絵図です。絵図には「下廣澤村より境野村へのはたし まつ原渡しといふ」という説明書きがあります。(『根本山参詣ひとり案内』みやま文庫 より)。

F東毛地域水系概念図

 この図は『忍山湯旅の記』とは直接の関係はありませんが、松原の渡しの位置を説明する際に新田掘や待堰の話が出たので、参考として「水土里ネットまちやば」(待矢場両堰土地改良区ホームページ)から東毛地域における農業用水の水系概念図を借用し表示しました。待堰や矢場堰、新田掘、蛇川、八瀬川などの位置関係が分かります。基本的には渡良瀬川より取水し利根川へ落とすという水系の成り立ちが見て取れます。

(2α)賀茂神社の御篝神事 (みかがりじんじ)
@御篝神事の様子

画像
 賀茂神社に関わる事項として参考までに御篝神事の様子を撮影した写真です。(準備したが当日は表示せず)
 御篝神事は、2月3日の節分の夜に賀茂神社でおこなわれる神事です。白装束をまとった氏子らが、神社の拝殿でお祓いをした後、豆まきをし、火の点いた薪を投げ合うというもの。火投げ神事とも呼ばれます。桐生市の重要無形民俗文化財に指定されています。
 
 今回はここまでにします。次回は松原の渡しを渡り境野村、新宿村を経て桐生新町へ至るあたりを説明したいと思います。

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