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zoom RSS 折々の雑感116 『歴史とは何か』を再読する

<<   作成日時 : 2017/02/25 00:52   >>

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 『歴史とは何か』(E・H・カー著 清水幾太郎訳 岩波新書 1962年)を再読しました。

 2月14日(火)の午後からどうも熱っぽいので、仕事帰りに医者に行くと、インフルエンザA型と診断されました。待合室で熱を測ると39.3度。自分でも驚きました。処方されたタミフルを飲んでその日の夜はすぐに寝てしまいました。
 翌日は仕事を休んで寝ていました。翌々日になると37度くらいまで熱が下がりました。布団の中にいても昼間は眠れず引き続き仕事は休んでいるので、時間を持て余し、本でも読むかと本棚から適当に取り出したのが『歴史とは何か』です。したがって再読の理由はたまたま目についたからであり、特別な意味はありません。

 初版は1962年です。55年も前の本ですが、いまも版を重ねているようです。私の手元にあるのは1992年の47刷。この頃どうしてこの本を買ったのか、まったく記憶にありません。中味についても、引用が多くて難解だったとの印象が残る程度で、内容は覚えておりません。

 1961年のケンブリッジ大学における連続講演がもとになっています。歴史上のある出来事や人物、課題などについて解説したり論じたりするものではなく、歴史の見方や考え方、方法などを論じ、著者の歴史哲学を読者に語りかける内容になっています。

 講演なので語り口は平易ですが、翻訳の文体のせいか、不自然な日本語に感じられる文章もあって非常に読みにくい。一見して難しく感じる。歴史家の書物や講演からの引用が多く、その歴史家も知らない名前ばかり。具体例として取りあげられる史実や人物に関しても西欧史や思想史などの知識がないためよく分からない。歴史哲学を論ずるもので、内容も抽象的で観念的な議論が中心であり、そもそもが難解であるという理由もあります。
 インフルエンザで暇を持て余していたのでなければ、おそらく途中で投げ出していただろう、そんなふうにも感じられるとっつきにくい本でした。

 こんな調子で、一度通読しても内容がさっぱり頭に入ってこなかったので、ほかの人たちは、いったいこの本をどう読むのだろうと、アマゾンのサイトを開き、レビューなどを読んでみます。すると「そういうことだったのか」と、おぼろげながら理解できる部分もありました。少し分るとつられて興味を引かれる箇所も出てきて、もう一度よく読んでみる気になったのであります。

 もうひとつ、グーグルで『歴史とは何か』を検索しようと文字を入力していくと検索欄に候補のキーワードが並びます。そのなかに「歴史とは何か レポート」、「歴史とは何か 要約」などのキーワードが出てきて、さらに関連キーワードに「歴史レポート書き方」、「歴史学レポート」などのワードが表示されます。
 どうやら本書は、大学の初期の歴史学の授業で取りあげられ、レポートの課題文献として指定されることも多い、ということが分りました。
 なかには質問サイトで「大学の歴史学の講義でレポートが課されたが、内容を教えて」といったそのまんまな質問もありました。思わず「自分で読めよ」と独りごちてしまいます。けれど、私もいまの時代に大学生であったなら同じようにネットに頼っていることでしょう。ですから他人の批判はできませんね。
 ともあれ『歴史とは何か』は古い本ですが、いまも読み継がれている名著ということになるのでしょう。

 それで、二度めの再読は、要点のメモを取ったり重要と思われる文言を抜き書きしながら読んでみました。よく分からない引用や知らない歴史上のエピソードは、相変わらず素通りですが。

 主要な論点をまとめると以下のようになるかと思います。

 歴史は叙述者の主観(事実の選択と解釈)に依存し、真に客観的な歴史は存在しない。叙述者の主観には、彼が生きる時代や社会の価値が反映される。よって過去を見るときは、必然的に現在の目を通して過去を見ていることになる。
 現在の解釈で過去の事実を見ることでその解釈も変えられ、その変化した解釈を通じて再び過去の事実に向き合うと、当然にそれも変化する。この作業が繰り返され、こうした絶え間ない相互作用によって事実と解釈は常に変化し続ける。

 社会を離れた個人は存在しない。数多くの諸個人は自己の利益のために行動する。結果的にそのことが総体として社会を動かす。歴史の事実は、社会のなかの諸個人の相互作用に関する事実である。歴史は社会過程であり、個人は社会的存在として、このなかにいる。

 歴史は科学である。よって歴史にも科学の方法が適用される。それは帰納法である。つまり個々の具体的な事柄から一般的な法則を導く方法である。
 ただ、科学が行うことは普遍的な規則性や絶対的に真なる法則を導くことではない。科学が行うのは仮説を作ることである。その仮説が証明され、変更され、反論され続けることで常に新しい知識が得られる。

 歴史研究とは因果関係を明らかにすることである。ある事象の原因は多数あるが、そのなかで合理的な説明が可能な原因にこそ意味がある。合理的で有意な原因を選び取り、偶然的で無意味な原因は捨象する。
 合理的な説明が可能な原因は、他の時代や地域などにも適応でき、一般化が可能である。一般化から歴史の教訓が得られる。この教訓を未来へ伝えることが重要である。

 歴史は絶えず進歩する。歴史家もその過程を一緒に歩む。その進歩とは、知識・経験・技術・物質(資産)などの蓄積が継承され、それらが次世代へと伝達されることを通じての進歩である。
 歴史における絶対的真理は存在せず、事実や解釈、価値などは、それらどうしによる相互作用によって変化し続ける。

 近代における歴史は人間の自己意識が発展したことに始まる。多くの民衆が社会的・政治的な意識を持つようになり、過去と未来を持つ歴史的実体として自らを自覚するようになる。このことが歴史の始まりである。
 近代から現代にかけては、社会における人間の行動を支配する客観的法則を理解しようという段階から社会と個人とを意識的に作り変えていこうという段階に進歩・発展している。
 さらに世界の形は、西欧中心の世界から全世界な広がりを持ったものに変化している。

 「相互作用によって変化し続ける」というフレーズが本書には繰り返し出てきます。最初はこの意味がよく理解できませんでした。そのうちに「これは山の見え方に何となく似ている」と気づいたときに腑におちた気がしました。つまりこういうことです。
 山の形(見え方)は見る位置によって変わります。観察者が移動するにしたがって山の形は常に変化する。たとえば山のすそ野を右から左へと移動しながら山頂を眺めれば、その山容はいつも違って見えます。また山へ近づいたり山から離れたりすれば、その地点で仰ぎ見る山の形状(この場合、見える大きさと言ったほうがいいかもしれません)はそれぞれ別のものに見える。つまり同じ山であっても観察者の位置によって山の形は変わるのです。その山としては常にそこに同じ状態で在るのだけれど、見る者の位置が変われば見え方は変わる。
 こういうふうに考えてみると「歴史は、相互作用の不断の連続、現在と過去との対話」ということが納得できたように思えました。過去の事象はあるときそこに存在していた。だが、それを見る者がアプローチして拾い上げなければ、そもそも見ることすらできない。見る側が何に注目し、それをどの場所(時代や社会、価値観)から見る(解釈する)かによってその見え方(過去の事実)も変わってくる。
 また、見る側の位置(時代や社会、価値観)も、永遠に不変ということはありえず、見たものやその見え方(過去の事実)に影響されて常に変化してしまう。したがって、そこから再びその対象を見ようとすると、対象の見え方も以前とは違ったものになる。この繰り返しで一定不変ということはない。

 本書のなかで言われていることは、とくに新奇でも独特でもなく、歴史の見方や考え方について語られる多くの場面において、いまでもよく見聞きする至極真っ当な見解に思えます。
 本書を読み終えたすぐ後で開いた新聞にも、たまたま同じようなことが書かれているのを見つけ、多数の人に共有される普遍的な歴史観なのだと再認識したしだいです。書評欄(2月19日付朝日)のコラム(「著者に会いたい」)に『教養としての「世界史」の読み方』(木村凌二著)という本が紹介されていました。そのなかに著者の言葉として以下のようにありました。
 「現代が抱える問題を過去に投げかけ、意味をくみ取ることが歴史家の役割。ただ、自分が現代の立場から過去を見ていることに自覚的であるべきです」

 ひとつ気になるのは、著者の進歩至上主義ともいえるような人間観や歴史観です。
 近代では経済や社会の動きを支配する法則や規則性を探求することに主眼が置かれていたが、現代では人間が意識的に社会の仕組みや制度を作り変えることができるという認識が広がってきたと述べ、人間の営為によって歴史は進歩を続け、より優れた未来が訪れるといった展望を著者は語っています。
 「理性の濫用」という項で、高い知識を持った一部のエリートが、自分たちの利益のために、その知性や理性を利用して大衆の意識や行動を誘導し統制して自己が属する集団・階層にとって都合のいい社会を作り上げる危険性なども指摘しています。しかしそれでもなお、自らをオプティミストと認め、人間の理性に絶対の信頼を置き、歴史は進歩を続けるという楽観主義の態度をとります。

 科学技術についても、人間はその知性と理性をもって環境を支配し作り変えていくことでよりよい社会を築き上げてきたとして、科学技術の進歩を称賛しています。その一方で、科学技術の負の側面(ある部分にある種の犠牲を強いることやそれ自体がはらむ危険性)を指摘してはいますが、それでもその恩恵を受けて社会は進歩し、人々に幸福がもたらされたと評価します。
 そして、これからも科学技術はさらに発展し、それに伴って社会も進歩を続けるであろうし、それは素晴らしいことであると結論付けます。

 こうした進歩に対する見方や態度は、この講演がなされた時点においてその社会に浸透していた価値観や時代状況に依存・立脚しているものと思われます。個人の価値観はその時代や社会の価値に規定されるということは、本書のなかで繰り返し主張されている命題です。
 これを前提として現在における私の立場から著者のこうした歴史観や楽観主義に感じるのは、以下の点です。

 現在の世界においても地域的な紛争や戦争はたびたび引き起こされているし、差別や経済格差も依然としてなくならない。状況は悪化し人類にとっての不幸は、むしろ拡大しているかのように見える場面も多々ある。
 科学技術の進歩に関しても、すべての問題がテクノロジーの発達によって解決できるとは限らないし、いま、その限界も認識されつつあります。化石燃料を大量に消費することで自然環境や気候を変えてしまっているという現状や核兵器開発と原子力発電を通じて蓄積された放射性廃棄物を永久的に管理し続けなければならないという課せられた難題などを考慮すれば、人間の知識や技術を用いて自然環境を支配・統制し、都合のいいように作り直すという発想にはそもそも無理があります。

 できることの限界や世の中にはできないことも存在しうるという現実を謙虚に受け止め認識した上で、これからの行動を決めていくことも必要でしょう。進歩を至上のものとして理想化する歴史観や人間の理性や努力によってあらゆる問題は解決できるという考え方は、困難な状況下で適正な判断を下したり最適な選択をなそうとする際に、阻害要因として働く可能性があるように感じられるのです。

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