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zoom RSS 折々の雑感115 天皇の退位をめぐって 

<<   作成日時 : 2017/02/04 01:20   >>

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 天皇の退位をめぐる議論が盛んです。昨年8月に天皇が発した「おことば」を契機にこの議論が始まりました。以降続く天皇の退位をめぐる議論に関し率直に感じたことをいくつか書きます。

 端的に言えば、例の「おことば」は、退位の表明です。高齢になり、自らが理想とする象徴としての役目が果たせなくなりそうなので、退位したい。これが「おことば」の核心でしょう。天皇が公的に退位を表明することは、憲法が禁じる国政への関与にあたるのではないか。このニュースに触れたとき、率直にそう感じました。この天皇自身による退位の意向の表明に対し、「憲法違反である」との批判が当初ほとんど無かったことが不思議でした。
 「おことば」では慎重に表現を選んではいます。しかしその本質は「退位表明」にほかなりません。生前退位には皇室典範の改正か新たな法律の制定が必要です。このことを天皇は当然承知しているはずです。したがって、退位の意向の表明は、立法府に対し皇室典範の改正か新たな立法を要求するのと同じことです。
 「おことば」では制度の是非や法律の改正には言及していません。明確に退位の意向を表明しているわけでもありません。けれども退位の意向を強く感じさせるメッセージを国民に向けて発する行為がその後の政治にまったく影響を与えないとは考えにくい。現にそのメッセージをきっかけに政府や国会が退位の実現に向けて動き出している。
 このように天皇自身による退位の意向の表明は極めて政治的です。これは明らかに「天皇は国政に関する権能を有しない」という憲法の規定を逸脱していると言わざるを得ません。
 こうした批判に対し、天皇の「おことば」を退位の表明ではく、国民に向けた問題提起と受け止め、それをきっかけに国民が考えて新たな退位のルールを定めたとすれば、「おことば」と退位は直接結びつかず、国政関与にはならない、という意見が聞かれました。しかし「おことば」を問題提起として受け止めるというのは、単なる言葉の言い換えで、ごまかしにすぎないという気がします。いくら表現を工夫しても、内実は「退位の表明」にほかならなず、それを公にすることで政府や国会が動き出せば、国民がどういう風に受け止めようが、結果的には国政に関与したことなります。むしろ、あの「おことば」を発する行為が、実は憲法の規定に反するという認識をあらかじめ持っていたがゆえに、かなり慎重に言葉を選んだ。国政関与と批判されないように本音をぼかしたとも言えるのではないでしょうか。
 退位の表明は、長年の間、象徴天皇としての実践を積み重ね、象徴とはどうあるべきかを熟慮した上での決断であり、そうした背景や蓄積を考慮せずに憲法違反だと批判するのは、あまりに非礼であるし酷だ、との反論も聞きました。天皇の真摯さや苦悩の末のやむを得ぬ選択であったという点は、ある程度は理解できます。それでもなお、天皇の政治的な意見がNHKで放送されたことは、かなり異例な事態に感ぜられます。憲法に書かれた文章と、一連の状況およびその後の展開、推移などを照らし合わせると、やはり違憲なのではという疑念は完全には払拭できそうにないのです。

 そもそも人が象徴を務めるという制度自体に無理があると思います。象徴とは、抽象的な概念などを具体的なものによって表すことです。「ハトは平和の象徴」と言うとき、そこにおける「ハト」は、ハト一般であって、誰かが飼っている個別の、ある一羽のハトではありません。そうした一般化された事物の役割を一人の人間が担う制度自体がおかしい。
 個人が、死ぬまで、それこそ四六時中「天皇」であり続け、「象徴」を務め続けなければならない。一人の人間にとってこれほど酷な、理不尽な制度もなかろうかと思います。個人に立ち戻ることが許されず、個人として存在することが認められていないのです。
 皇太子妃の雅子さんが長い間、心労でまいってしまっているということも、そうした制度としての理不尽さ、過酷さを証明していると感じます。もちろん、天皇と皇太子妃では役割が違い、その役割を演じる過酷さも責任の重さもけた違いではあろう。生まれたときからあり方を決められている者と人生の途中からあのようなあり方を強いられた者の違いもあろう。皇太子妃でさえそうなのだから、天皇に至ってはいかほどかと思う。
 こうして個人が象徴を務めるいまの天皇制について考えてみると、合理性が重視される現代社会にあって天皇制や皇室制度そのものが抱える無理さがここにきて際立ってきているという気がします。

 「象徴」としての務めとは何か、「象徴」とは何をするのか。いまの天皇は被災地を訪問し、震災で亡くなった人びとの慰霊をし、被害に遭った人びとに話を聞いたり、声をかけたりということを積極的にやっています。また、先の戦争に関わる場所を訪ね歩き、戦争で亡くなった人びとを追悼し、慰霊する活動もおこなっています。天皇自身は、そうした役割を象徴としての務めと位置付け、現に「おことば」でも「国民の安寧と幸せを祈る」ことや「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添う」ことを大切に考えてきたと述べています。
 こうした行いは、決して悪いことではない。ただ、天皇自身が象徴としての務めであると確信し、その信念に基づいて取り組み続けてきた行いの是非は別にして、いまの天皇がしている行為は、かなり宗教的な色合いが濃厚であって、宗教者としての役目に近い気が私にはします。形だけをみれば神職や僧侶が行うことと近似している。宮中祭祀や皇室の伝統的な儀式を執り行うという役割は、まさに宗教的であり、そこでの天皇は、まぎれもなく宗教者そのものといえます。
 これに関して新聞(2017年1月6日付朝日)のオピニオン欄に掲載された「退位問題に思う 天皇制と民主主義の矛盾」(佐伯啓思)という文章が興味深い。この稿の主題は「日本の歴史や伝統に根ざした天皇制と西洋から導入した近代的な立憲主義や民主主義は相容れない」というものです。このなかで、日本の天皇制の伝統的な本質を以下の3点に要約しています。
1 天皇の地位は世襲である。
2 天皇は人間だが、聖性を帯びる。神を祀る「祭祀の長」であると同時に、天皇の聖性を「たてまつられる」という二重性をもつ。
3 天皇は政治的な権力には関与しない。
 そして、戦後の日本では1と3の特質は残し、2の聖性は否定したが、本来これらの3点は切り離せないもので、現在の日本人も天皇の「聖性」を心のうちにもっている、と指摘します。
 「聖」が持つ意味は「とうとい、すぐれている、けがれがなくきよらか」などであり、「聖」という字は、宗教に関わる言葉を作ることが多い。手元の辞書には「神、または神と同じくすぐれている。神聖」とも書かれています。さらに「神聖」を引くと「尊くて、おかしがたいこと」とあります。佐伯氏は、宗教という言葉こそ使っていませんが、「聖性」とは宗教的なものに見いだされる性質と理解できます。心情的に「尊く、おかしがたい」と日本人に感じさせる、そういう性質を天皇はもっている。ただし、ここでいう天皇とは、現在の天皇その人ではなく、天皇というもの、あるいは日本の歴史や伝統を後ろに背負う天皇一般といったような意味でしょうか。そこにおける歴史や伝統は無批判に美化されるものではなく、明治から十五年戦争の敗戦に至るまでの負の側面をも含めた形で総体として捉えられるべきでしょう。

 天皇制は、建前の上では、憲法や法律によって規定された制度ですが、実際上、この国において、それを成立させているのは、法の論理や合理性ではなく、天皇を「尊く、おかしがたい」と感じさせる性質です。それは国民の心のうちにあって、天皇制は心情的な支持の上に成り立っています。現憲法下では、「神聖にして侵すべからず」の存在ではなくなっていますが、現在の日本人にも天皇をその聖性に根ざして支持する心情が残り続けていることは事実でしょう。
 一般参賀の際、皇居内の広場で繰り広げられる光景―例えばバルコニーに立つ天皇とその家族向って集まった人びとが日の丸の小旗を振る―は、単なる祝賀の風景ではない。その場のありようは、どことなく神聖な空気感をまとっています(と私は感じる)。もっとも「祝」という字も宗教的な意味内容を含むのですが。辞書には「1神の示しを喜んでいわう、2神をまつって願いごとをする」とあります。
 小旗を振る動機は人それぞれでしょうし、そうすることでどんな心持ちになるかなど、そこで得られる感覚も人それぞれでしょう。ただ、程度の違いこそあれ、小旗を振る対象が醸すある種の尊さや侵しがたさにありがたみを感じ、何かしらの心の安定や充足を感得しているものと想像します。私があの光景に宗教的な空気を感じるのはこのためです。
 私がそのように感じるのも、自身の心のうちに天皇に対する侵しがたい心情のようなものが宿っているからかもしれません。その心情は、明確な崇拝や信仰とは違うそれとは意識されない何となくぼんやりとしたもののようです。それは、この国で育つうちに天皇や皇室に関する言説や報道、映像などに触れ、周囲の人から話を聞いたり教えられたりするなかで、しだいに心のうちに形成されていったものなのでしょう。

 まとめます。表立ってそうと断言されることはあまりないけれども、天皇の存在やいまの天皇制は、ある種の宗教性を帯びています。宮中祭祀や各種儀式のあり方を見れば、天皇は、まぎれもない宗教者です。神を祀る主体であり、同時にたてまつられる客体でもある。
 その宗教性を帯びたものが、国民統合の象徴ということになっている。それは、国民が一つにまとまること、そのことを具現化したものが天皇ということです。さらに、天皇がまとう宗教的な色合いの強さを思えば、宗教性を帯びた存在が国民のまとまりを具現化しているとも言えます。つまり、天皇は、形式上は、政治から切り離されたものとされながらも、政治の装置の一つであって、決して政治と分離され独立的に在るものではなく、その装置が力を発揮できるのは、それがまとう宗教性ゆえであり(すべてが宗教性に還元できるとは言わないが)、この意味で、天皇制は政治的でかつ宗教的な制度です。

 繰り返しになりますが、天皇は国政に関与する権能を持たず、政治とは切り離された存在とされながらも政治的です。そして、ある種の宗教性に乗じて国民の支持を得ており、合理性や論理性とは違った形の、何かしらの神聖なあり方(尊く、侵しがたいと感じさせる雰囲気)に根ざして存続している側面もあり、かなりの部分で宗教的です。
 憲法上は、政治と宗教は分離されなければならないと規定されていますが、天皇制の上に見たような特質を考えると、分離されているどころか強固な結びつきが感じられます。
 さらに現憲法は基本的人権の尊重をうたいながら、天皇および皇族に人権はない(あるいは極端に制限されている)。思い付くだけでもさまざまな矛盾があります。
 この矛盾を解決するためには、天皇制を廃止してしまう以外はないと思います。法論理的にも天皇制廃止は可能です。上に引用した佐伯氏の文中に「『国民の総意』によって、憲法改正をへれば、天皇制度を廃止することもできる」とあります。なぜならば「天皇の地位は、あくまで国民の総意にもとづくもの」であり、その「地位や在り方は、もっぱら国民の意思に委ねられている」からです。「国民の総意」が天皇制廃止になったとすれば、そのようにせざるを得ないということになります。国民の意思によって天皇制の廃止も可能なことにあらためて気付かされ、この指摘には、なるほどと思いました。
 けれども、天皇制がかなりの支持を得ている現状からすれば、現実にはなくすことはできないだろうとも思います。
天皇の信者とまでは言わないが、天皇や皇室のファンである人びとが強固に反対し、天皇制廃止が「国民の総意」とはならないであろうから。
 現に、「おことば」後の議論のなかでは、現天皇の退位をどう実現するかばかりが議論されており、象徴天皇制がいいか悪いかや、そもそも男系の世襲でなければならいという時点で現代社会の価値観とは矛盾する制度である天皇制を、今後も残す必要はあるのかなどの声はまったく聞かれません。天皇の継続は自明であるという前提が疑われることさえなさそうです。
 いっそ天皇は正式な宗教にしてしまって、皇室や宮内庁も含め宗教法人の一つとしてしまえばいいといった意見をどこかで読んだことがあります。そうすれば制度上の矛盾は解決されるし、天皇家を残すこともできる。天皇を信仰する人びとだけがたてまつっていけばいい。暴論でしょうか。

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
あなたのような人がいるから日本がどんどんダメになるのです。もう少し憲法や象徴天皇制の歴史について勉強なさったらいかがですか。

天皇陛下の御言葉は憲法違反ではありませんよ。よくお読みになりましたか? 天皇の立場としては政治に関する発言はできないから個人として考えてきたことを話す、とはっきりおっしゃっておられます。どうして御言葉が皇室典範の改正を要求することになるのでしょうか。御発言が世の中に全く影響しないことなどありません。結果的に影響が出る事と直接政治に関与する事は違います。あくまでも陛下が象徴天皇のお立場でなさったご経験を踏まえてお考えになられたことをおっしゃったまでのことでしょう。それを憲法に反すると批判するのは礼儀知らずもいいところです。  

宗教うんぬんに至っては意味不明です。
通りすがり
2017/02/06 00:28
 通りすがりさんへ。
 コメントありがとうございます。もっと勉強したらとのご指摘は、その通りでそのまま受け止めたいと思います。確かに憲法や制度、歴史などについてあまり知識のないまま思いつきで書いた部分はあります。
 その知識の無いなりに一連の動きを見ると、率直にそう思えた、ということです。
 天皇自身が退位について意向を表明することは、政治に関する権能を有しないという規定に反するのではないか、と感じられたのです。

 宗教の部分は意味不明とのことですが、この国で天皇を支える人々の心意が宗教のそれと似ているところがあるな、と思えたので書きました。宗教をキリスト教やイスラム教のように厳格な教義や教団に基づく宗教と捉えると私が上に書いたことは奇異に感じられる部分もあるかと思います。もっと日本的な宗教(自然的な信仰心や民間信仰のような形の宗教)という意味で書いたつもりです。
 以前にも『空海』の読後感を書いた文章のなかで触れたことがあるのですが、日本人は、実は、自らが考えるよりもずっと信心深く、信仰心の篤い国民と感じます。とくに死者を悼む祈りの行為などに強い信心深さを感じます。そのことはあまり意識されないし、そういうふうに認識されることも少ない。ただ、こうした心意と類似した心の在りようによって天皇も「たてまつられている」のではないか、天皇を心情的に支持する構造が、日本的かつ自然的な宗教の在り方と似ているのではないか、と感じたわけです。
 そしてこういう日本的なあり方によって成り立っている天皇制は、民主主義の理念とはどうしても合わない部分があると思います。
 宮中祭祀を天皇が執り行うことは、明らかに宗教的な行為に思えます。
げきさか
2017/02/10 22:54
震災で亡くなられた方を悼むとか、戦争で日本のために戦った方々の慰霊をするとかはごく普通の国民が習慣のように当たり前にしていること。これが宗教と言えますか。日本人の国民性じゃないですか。天皇制が宗教的とか政治の装置とかあなたの言っていることはアナクロの臭いがします。戦前の国家神道の時代とは違うのですよ。天皇陛下がなされてきたことは戦前の天皇像を払拭して平成の世の中に合った象徴天皇制を築くことでしょう。そうした陛下のお姿や思いを無にする批判はやはり礼を欠く行いです。
通りすがり
2017/02/12 12:29
 通りすがりさん、再度の書き込みありがとうございます。

 震災犠牲者を悼むこと、戦没者の慰霊は宗教か?という点について。
 これらの行為だけをもって宗教とは言えないとは思います。ただ、本人が意識しなくとも、広く言えば宗教性を帯びた行いであるとは思います。上で私が言いたかったことは、各個人が行う慰霊や祈りの行為が宗教的であるからそれがどうのといった、個人の行為の是非ではなく、現天皇が公的行為として行っているそれらの行為がどういう意味合いをもっているのか、ということが言いたかったわけです。天皇の祈りの姿が天皇に対する尊崇の念を高める効果を持つことは完全には否定できない事実であると思います。なぜそうした効果があるのかといえば、天皇の在り方や天皇の姿に対しての国民の受け止め方の中に、ある種、宗教性に根ざした心意が混在しているからだと思うのです。
 天皇の祭祀の宗教性については横田耕一著『憲法と天皇制』(岩波新書 1990年)から以下の文を引用したいと思います。
「皇室祭祀が高度の宗教性を持っていることは神道関係者も認めているところであるから、天皇の皇祖神等に対する祭祀は、目的において高度の宗教的意義を持っているとしなければならない」(p38)
 
げきさか
2017/02/19 00:17
(上のコメントの続き)
政治の装置という点について。
 たとえば、天皇が行う国事行為は、憲法上は儀礼・形式的なものとされ、実際の政治の決定に関わるものではないし、政治を左右するような性格のものでもないとされれています。しかし、かなりの格式や権威をまとった政治の行いとして普通の国民の目に映るだろうと思います。少なくとも私にはそう見えます。そしてそれを行う天皇も権威ある存在と国民には意識されます。国民の間にこういう意識が形成されるという現象を見ても、天皇は政治的な機能や意味を有していると言えるのではないか。
 ほかにも公的行為として各地で開催される行事や儀式などに参加して一定の権威ある「おことば」を述べるなどの行為も、直接政治と関係するとは言えないかもしれないが、自治体の長や議員などが行うことと形式としては類似のものであり、政治と全く無縁とは言いきれず、やはり機能や意味合いとしては政治的であると感じられます。外国から元首などが来日した際に迎えるという行為も、外交上の職務という印象があり、政治的な機能の一部を果たしていることは否めないように思います。
 このような意味で天皇は政治的であり、政治性も帯びた存在であると思うのです。

 最後に私には、現天皇が行ってきたことを無にしようなどという意図はありませんよ。昨年の夏以降の退位をめぐる議論やいまの天皇制の在り方を考えたとき、こういうふうに思える、こんな感じを受けるといったことを思いつくままに書いたまでのことです。
げきさか
2017/02/19 00:28

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