電撃! 激坂調査隊が行く

アクセスカウンタ

zoom RSS 折々の雑感108 佐川光晴『生活の設計』を読む

<<   作成日時 : 2016/10/15 09:40   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 『牛を屠る』に続けて同じ著者による『生活の設計』も読み直してみました。

 『牛を屠る』は屠殺場での職業体験を綴ったノンフィクションです。『生活の設計』は小説です。ともに屠殺をテーマにしています。
 『生活の設計』は佐川のデビュー作で、世に出たのは『生活の設計』が先です。私は、『牛を屠る』を先に読み、『生活の設計』は後から読みました。著者が屠殺場で働いているときに小説を書き始めたことやその理由、小説家としてデビューするまでのいきさつなどが『牛を屠る』に書かれており、これを読んで著者の作品に興味を持ち、『生活の設計』を読んでみました。
 このこと、つまり同テーマの二つの作品を書かれた順序とは逆に読んだことは、読後感に何かしらの影響を与えているだろうと思います。

 『生活の設計』を読んでまず感じたことは、『牛を屠る』との文体の相違です。『牛を屠る』は、簡潔な文体で、屠殺場の様子が客観的に描写され、職業体験が冷静に叙述されています。著者が思ったことや感じたことも挿入されてはいます。しかし、感情の起伏を抑え、あっさりと語っています。全体に淡々とした印象を受けます。そうした冷静沈着な語り口が、かえって著者の屠殺という仕事に対する熱い思いを強く伝える効果にもなっていると思います。
 それに対して『生活の設計』の文体は、回りくどく、ああでもない、こうでもないと一文が長い。この回りくどく饒舌な語り口によって著者は何を表現しようとしたのでしょうか。

 この小説は、語り手である「わたし」が屠殺場で働く理由を読み手に語りかけるという構成になっています。
 「汗かきだから」、「共働きだから」という理由をまず挙げています。しかし、屠殺場以外にも思う存分汗をかける暑い職場は他にもあるし、拘束時間が短く家事や育児をしやすい職場もまた存在する。したがって、なぜ屠殺場なのかという明確な理由は見い出せないでいます。
 ある日、「わたし」は、作業中に牛に頭を蹴られ、作業場に倒れ込んでしまいます。倒れている間に見た屠殺場の光景に真理を見い出し、屠殺場で働く理由が分かった気になります。
 屠殺場の光景を描写するこの箇所は、小説の核心でしょう。ここだけは、これまでの回りくどく饒舌な「わたし」の語りとは明らかに違っています。写実的であり、目の前に広がる光景を映像で記録するように写し取っています。心情の描写は抑えられ、見たままの光景がそのままに展開し、強い印象を残します。無音のなかに映像だけが映し出されているようで、静謐で神々しい感じすらします。
 ところが、見い出したはずの真理も実は錯覚であり、どうやら「わたし」が作り出したフィクションにすぎないと後で気づきます。そして、屠殺場で働く理由は分からないままだが、屠殺場で働くことでいまの生活があると悟り、現実の仕事と生活に向き合うという流れになります。

 小説の前半に屠殺場で働く理由を考え始めるきっかけとなったいくつかの出来事が回想されます。それらの出来事の最中にあって「わたし」は、おおむね困惑しており、ときに怒っています。それは「わたし」が「世間」と対峙しているからであり、この「世間」との対面のなかで生じる困惑やいらだち、怒りといった心情を、回りくどい語り口で表現しようとしたのではないか。
 屠殺場で働く理由を考えるようになったきっかけの一つとして、近所の床屋に初めて行ったときの、床屋の主人とのやりとりが回想されます。
 「わたし」は妻の実家の庭に建つ別棟で暮らしています。妻の実家は界隈では名の知れた旧家であり、妻の両親はともに教員をしていました。妻も、現在は、小学校の教員をしています。「わたし」が床屋に行くと、何気ない主人の質問から自らの素性が向こうにすっかり知られている(ばれている)ことに気づかされ愕然とします。
 「わたし」も妻同様に教員をしていると勘違いした床屋の主人は、それを前提に会話を向けてきます。しかし、「わたし」は、自分の職業が屠殺場の作業員であることを明かすことをためらい、それを明かした後に起こるであろう面倒を想像してあれこれ悩み、ついには不機嫌を装い、黙り込んでしまいます。
 そこで「わたし」は「世間」について次のように語ります。

「われわれはどのようにすれば『世間』から抜け出せるかを考えるのではなく、『世間』と『個人』とのあいだの分裂に耐えつづける方法を学ぶべきなのではないか」
「『個人』とは、『世間』の圧力に耐えつづけるなかでその都度かろうじて見いだされる程度のものであって、間違っても朝から晩まで一日中『個人』でいつづける人間などいるわけがなく…」


 確かに人は社会のなかで他者との関わりを持ちながら生きています。そうした関係のなかで他者に対しての役割によって自身が規定されます。「世間」あっての「わたし」でしかなく、所与の個人というものは存在しません。
 そして「世間」が規定する「わたし」と実際の「わたし」とのあいだには少なからぬ乖離があります。そのずれを解消し、くい違いをなくすためには、長々と説明したり、「世間」が納得するようなもっともらしい理由を示さなければならない。それが「わたし」の語り口を回りくどいものにしている理由ではないかと思います。

 屠殺という職業が「世間」から賤視されること、これは偏見であり差別です。「わたし」がいらだち怒っているのは、こうした偏見や差別に対する怒りのせいと見ることもできます。もちろんそれもあるでしょうが、それよりもむしろ屠殺場で働く理由を「世間」から憶測されることの不快感からであり、その憶測が自分の思いとは違っていることから生じる困惑のせいではないか。この心情を次のように語っています。

「これまでもわたしがそう(「屠殺、屠殺」と言いつづけてきた)と口にするたびに、わたしの意図とはうらはらに、そこに様々な理由や目的が読み取られてゆく光景は一種壮観でさえあって、わたしはいつも不思議な気持ちで相手の饒舌を聞いてきた…」

『牛を屠る』には
「職業を告げたとたんに、出自も含めた、あまり愉快とは言えない幾つもの理由が相手の頭をかすめるのも明らかであって、それなら口を噤んでいるほうがましである」とあります。

 また、床屋の主人とのやりとりのほかに妻の両親と対面したときの体験が語られます。
 「わたし」が妻の両親と同居する以前、屠殺場で働きだした当初に、妻の両親に招かれます。妻の両親(とくに父親)の意図は「わたし」が屠殺場で働く理由を問うことにあると「わたし」は、うすうす感じています。その際の、妻の父親とのやりとりにも、「世間」と対峙したときの、とまどいや困惑、やり場のない怒りといった感情が複雑に混じり合った心の動きが巧みに表現されていると思います。

「わたしは妻の父親が困惑した原因の大部分は、瀬川と同じく、肉体労働および屠殺に対する偏見からきているのであり、それに対しては『では一度も肉を食べたことがないのですか?』というごく卑近な反論でこと足りるのだと考えてはみたが、わたしはそれを口にする気にはならなかった」

 ここに出てくる「瀬川」は「わたし」の大学時代の友人。友人とはいっても実はそれほど親しい間柄ではなく、顔見知り程度の、むしろ知人というべき人物という設定になっています。その「瀬川」に、なぜ屠殺場で働くのかを問い詰められ、怒りをあらわにして殴ってしまう、という出来事が前段で語られています。

「…つづいてその時(妻の父親に屠殺場でずっと働くつもりでいることを告げた時)感じた申し訳ない気持ちがよみがえってきた。わたしはあわてて、わたしはただ屠殺場で働いているだけであり、それ自体にいささかも非難されなければならないことはないのであって、もし非難しようとするのであれば、それは単なる差別なのだ、と自分に言い聞かせたものの、いっこうに気持ちが落ち着かないのは、だからといってわたしがそこで働かなければならない必然性もまたないからであって、もし明確な理由でもあるならば、わたしはもうとっくにそれを妻の両親に向かって話していたはずだ」

 屠殺という仕事を肯定しているつもりでいる。しかし、屠殺場で働く理由は分からないまま、そのことに対してやましさも感じている。とくに妻の両親のことを思うとき、それを感じる。
 妻の両親は「世間」を具現するものとして象徴的に描かれていると思います。他に世間を具現するものとして、近所の床屋の主人や息子が通う保育園の先生、大学時代の知人などが登場するわけです。このような「世間」と相対したときに湧き起こる葛藤や心のうずきを表出することが、この小説の意図なのではないか。

 私は『生活の設計』を単行本ではなく、双葉文庫『虹を追いかける男』に所収されているもので読みました。この文庫には文芸評論家の酒井信による解説が付されています。解説のなかで酒井は、佐川は「働くこと」に意識的であると評し、次のように書いています。

「屠殺という生業を通じて、『自然』と向き合い、和解することの『むずかしさ』を描くことで、『働くことのむずかしさ』の根源に迫ろうとしている」

 『生活の設計』は「全世界のプロレタリアよ、団結せよ!」という一文で結ばれています。このことからも、この小説が働くことを描き、その意味を問うたものであることは確かでしょう。ただ、働くことの意味を問うことだけに主眼を置くのは、私がこの小説から受け取ったメッセージとはニュアンスがずれてしまうような気がします。
 現代は、働くことに意味を見い出すのが困難な時代といえます。酒井が解説において指摘するように、IT化が進み、働く人々の二極化が進行しています。この二極化とは、高度に専門的な仕事を受け持ち、全体の責任を担う層と交換が可能な単純労働に従事する層とへの分化です。このような極度に分業化された労働環境のもとでは、単純労働に従事する側ではとくに、自分がしていることの意味を実感したり、全体のなかでの位置付けを確認することは難しい。その作業や行為自体がおもしろいわけでもなく、そればかりか労働というよりも労役に近いことであったりもします。賃金を得るためと割り切って、つまらなさや大変さに耐え、仕事の外界に喜びを見い出すというのもやむを得ないことなのかもしれません。
 『生活の設計』においては、このようなそのこと自体に意味や喜びを見い出すことがむずかしい労働の対極にあるものとして屠殺という仕事が描かれてはいます。しかしながら、この小説が発するメッセージは、屠殺という仕事を描くことで働くことの意味を問う、ということとは何となく違う気がします。屠殺という仕事が世間から偏見の目で見られることや屠殺を口にしたとたん世間の側にさまざまな憶測が生まれる現象などを通じて、もっと私的な、内面における葛藤や心のうずきをあぶり出そうとしたのではないか。それは個人が世間と対面したときに心に生じるものです。世間の圧力に耐えるつづけるなかで心に生じる困惑やいらだち、不快感などの在りようを明らかにしようとした小説である。私はそんなふうに読みました。

 本来的には世間から自分がどう見られようが、どういった憶測をされようが気にせずに堂々と生きられれば、それがいいのかもしれません。けれども、世間に生きる以上、そうもいきません。
 そうしたことを受け止めて、その上で「わたし」は屠殺を一生の仕事として受け入れます。それが「わたし」の「生活の設計」であるからです。だから、その仕事と生活が奪われそうになったときには闘うと宣言しています。この小説は、その決意表明のようなものと思います。
 いろいろ考えても屠殺場で働く真の理由は見つけられない。それならば現実の生活に向き合い、与えられた環境のもとで何とかやりくりしながらやっていくしかない。そこに理由などは必要ない。そうした「わたし」のあり方に、あきらめとは違う、ある種の開き直った前向きさを感じ、すがすがしい思いがします。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
折々の雑感108 佐川光晴『生活の設計』を読む 電撃! 激坂調査隊が行く/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる