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zoom RSS 折々の雑感104 「荒戸村の『新町』成立‐桐生新町の起源‐」を読む

<<   作成日時 : 2016/07/16 09:54   >>

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 会員になっている郷土史研究会の機関誌に興味深い論文が掲載されていたので、紹介します。桐生新町の起こりについて考察した「荒戸村の『新町』成立‐桐生新町の起源‐」(巻島隆)という論文です。

 『桐生史苑第五十五号』が届きました。今号は創立80周年記念号だそうです。『桐生史苑』(以下『史苑』と略)は桐生文化史談会(以下「史談会」と略)の機関誌で、年に一度発刊されます。
 私は史談会の会員になっているので、毎年、この時期になると、『史苑』が送られてきます。史談会は桐生市の郷土史研究会です。会則に「桐生市域を中心とする地方の歴史および産業文化の研究を行い」とありますが、私自身は、これといった研究活動をしているわけではなく、年に数回案内される講演会や郷土史講座に時たま出かける(実のところ、ここ最近は、それさえも行ってないなあ)といった程度です。

 巻島隆氏は、近世の飛脚や桐生社会について研究されている方で、2015年に『江戸の飛脚 人と馬による情報通信史』(教育評論社)という本を出されました。
 私が巻島氏のことを知ったのは、2006年12月に開催された歴史シンポジウム「桐生新町の活力を探る」(史談会・桐生市教育委員会主催)においてです。巻島氏は、そのシンポジウムでパネラーとして「役用日記中の飛脚について」という講演を行い、桐生新町役用日記をもとに政治・経済・社会の3つの観点から桐生新町における「飛脚」の役割や存在意義を考察されました。(参考 シンポジウム「桐生新町の活力を探る」についてはこちら
 それ以来、『史苑』に掲載された一連の論文をはじめ、その他、いくつかの論文を読んできました。今号の「荒戸村の『新町』成立‐桐生新町の起源‐」で、巻島氏は、近世初めに桐生新町が成立した経緯(いつ、どのように町ができたか)について従来の通説とは異なる新しい見方を提示されています。

 桐生新町の起源に関しては『桐生市史』(以下『市史』と略)に書かれている「大野八右衛門が町立てをした」という説が通説とされています。すなわち、「天正18(1590)年の徳川家康による関東入封に伴い、代官である大久保長安の手代大野八右衛門が、天正19(1591)年、荒戸村に都市計画的に町を創設し新町とした。これが桐生新町の起源である」とする説です。
 この通説に対し、巻島氏は、『市史』が論拠とする史料が同時代の一次史料ではない点、大野による町立ての記述がある史料(通称「岩下旧記」)は信憑性を欠く面がある点を挙げ、従来の通説に疑問を呈しています。知名度の高い史料(新居家文書「天正年中桐生故事」桐生市立図書館蔵)には、天正19年に桐生新町が「草創」されたこと、慶長3(1598)年に大野八右衛門が新町を検地したこと、しか書かれていないといいます。つまり、大野が桐生新町を検地した事実は読み取れても、町立てした事実は読み取れないということです。

 論文中に「その後の様々な文献も無批判に通説を踏襲している」とあるように、私も、桐生新町のおこりについては『市史』などを読み、その記述をそのまま受け入れ、そういうものとして理解していました。当ホームページでも、桐生について書く際に『市史』の通説をもとにした話を幾度か書いてきました。(参考 当ページに書いた過去の記事。大野八右衛門についてはこちら。桐生新町についてはこちら。)
 ついでながら、他の文献においては桐生新町の起源に関してどのように書かれているかをみてみます。『群馬県史 通史編5近世2 産業・交通』をみると
「天正十九年三月、上野国の幕府領支配に大きな足跡を残した人物として知られる大久保十兵衛長安が桐生新町(桐生市)を創設し」(P53)、
「天正十八年の徳川氏の関東入部に伴って、桐生領五四か村が由良氏の私領から幕府領となった際に、代官大久保十兵衛長安の手代大野八右衛門尊吉がこの地域の民政を担当するために桐生に来て、翌十九年の陣屋の設置と同時に荒戸原に新町立てを行ったと考えるのが妥当であろう」(P277)

とあります。
 桐生織物の歴史について書かれた『西の西陣 東の桐生』(岡田幸夫 上毛新聞社 2005年)という本では、桐生新町の創設に関し、以下のように書かれています。長くなりますが、そのまま引用します。
「大野八右衛門はこう考えた。『山地と平野の接続する桐生の地は、新しい町をつくって市を開くことだ。山間部で生産が盛んな生糸と織物を産物にして交易を盛んにすれば、この町は将来大いに発展するであろう』
 こう確信すると、桐生川によって開かれた扇状地で、当時荒戸原とよばれた未開拓の地に新しい町をつくることに決した。そのため荒戸原を一望できる高台に陣屋を移し、自ら陣頭指揮をして新しい町立(町づくり)にあたった」(P11)

 双方とも『市史』に依拠していると思われ、同じような内容になっています。

 対する巻島氏は桐生新町の起源についてどのような見方をしているのかというと、戦国期から江戸初期にかけて関東各地に形成された市立てを起源とする「新町」の成立を、桐生新町の成立についても適用しています。つまり、桐生新町の起こりは天正年間に当地(荒戸村)にできた市がもとになっている、との見方です。
 ちなみに手元の日本史辞典(角川)で「市」の項をみると、初めに「物資の交換取引が行われる空間の一つで、場所が固定化し、そこに市神が勧請される」と定義され、「戦国期には村落小市場が広範に成立し、交通路の要衝に位置する市町を中心に地域的流通が活発化した」と説明されています。
 さらに「在郷町」の項に「中世から交通の要衝などとして都市的機能をもっていた村落や、流通の拠点として成立していた定期市をもつ村落などが、商品流通の発展に伴い地域市場の中心となり、様々な商工人が常設店舗を設けて定住し町場化したため、人々が町と呼ぶようになった所」といった記述がありました。
 このような市町、すなわち市立てを中心に形成された集落が町場へと発展したものが桐生新町の起源である、というのが巻島氏の推論です。市立ては荒戸村の百姓側が求めて進めたもので、そこから新たな町場「新町」を形成していったとしています。大野八右衛門の事績に関しては
「慶長三(1598)年に荒戸村を含む山田・勢多郡で検地を実施した。あくまで町立てとは関係なく、徳川直轄領の田地面積を測量し、生産高を調べ上げることを目的としたものであった」と結論付けています。
 
 私は、これまで『市史』の記述をそのまま受け入れて(自治体史や地誌書等に書かれる内容を疑ってみるような見識は持ち合わせていないので)おり、今回の巻島氏の論文は、月並みな表現ではありますが、まさに「目からうろこが落ちる」とでも言えるもので、大いに興味を引かれたのであります。
 歴史の定説や通説が新しい史料の発見や従来史料の再検討などを通じて書き改めてゆくものであることは、頭では理解していたつもりでしたが、これまでそのことに係わる直接的な体験に乏しく、どこか漠然とした理解であったような気がします。今回の巻島氏の論文を読み、歴史の通説が改められてゆく過程を垣間見たような気がして、こうした類の文章を読んで久しぶりにワクワクさせられました。また、ある一つの仮説を提示し、様々な材料を挙げながらそれを論証していくプロセスの面白さも感じました。

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